歴史の勉強

安房国  館山城

模擬天守

    

伝里見義康御殿跡

堀切

八遺臣の墓

鹿島堀

のちに悲劇の大名といわれる安房里見氏は清和源氏新田氏流で、新田義重の庶長子義俊が上野国碓井郡里見郷(群馬県高崎市)に住したことに始まるというから、鎌倉時代以前からの名流である。
安房に入ったのは室町時代、里見義実で安房への入国の経緯についても諸説あるが、最初は白浜城を根拠として勢力を伸ばし、反対派を抑えて当時の安房国の中心であった稲村城に進出したとされる。この義実の安房入国を脚色して物語としたのが、江戸後期の曲亭馬琴が書いた南総里見八犬伝である。
里見氏が安房で抜きん出た勢力となると、当時関東一円に勢力を広げつつあった後北条氏と対立、三浦半島や鎌倉にまで侵攻する。

しかし天文2年(1533年)、宗家の義豊に対して庶流の実堯・義堯父子が後北条氏と結び反乱を起こした。その結果、実堯・義堯父子は稲村城を落として義豊を自害に追い込んだ。これが天文の内訌といわれる争いである。
程なく稲村城は廃されて滝田城に本拠が移され、やがて義堯は上総に進出、上総武田氏と干戈を交え、後北条氏とは再び対立した。
里見氏の拠点は上総久留里城に移り、後北条氏との二度の国府台合戦での敗北などの危機を乗り越え、次代の義弘のときに最盛期を迎える。
義弘は安房、上総両国を完全に制圧し、下総南部にまで勢力圏を広げ、天正5年(1577年)には長年にわたり敵対関係にあった後北条氏の氏政と和睦した。
しかし義弘が翌天正6年に死去すると再び家督を巡る騒動が起き、争いに勝った義頼は天正8年(1580年)に本拠を安房岡本城に移した。

義頼は豊臣秀吉に接近し、安房と上総の所領安堵に成功し天正15年(1587年)に死去する。跡を義康が継いだが、天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際に、遅参と惣無事令違反により上総を没収されてしまう。
義康は秀吉の許可を得ずに独断で軍事行動を起こし、北条領を攻めたとされ、これが秀吉の逆鱗に触れたという。このとき義康と秀吉の間を取り成したのが徳川家康で、以後義康は家康に接近するようになる。
このころに義康は岡本城から館山城に本拠を移し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に属して功を挙げ、常陸鹿島で3万石を加増される。

だが、里見氏の安泰は長くなかった。慶長8年(1603年)に義康が死去し忠義が当主となった。その忠義は慶長19年(1614年)に大久保忠隣事件に連座して伯耆倉吉3万石に転封される。
安房は没収され、倉吉3万石は鹿島領の替地とされたから、事実上の改易、配流であった。そして元和8年(1622年)に忠義が死去すると、嗣子がないとされて断絶し、ここに里見氏は滅んだ。
里見氏が本拠とした館山城は廃され、安房国はほとんどが天領となり、江戸時代を通じても小藩がいくつか置かれただけであった。
用心深い家康は、江戸湾の入口を扼する重要地に外様である里見氏を置いておくわけにはいかないと考え、半ば強引に里見氏を滅ぼしたのが真相であり、里見氏が悲劇の大名といわれる所以である。

里見氏が本拠とした館山城は義頼時代には既に築かれていたとされる。ただし本拠とするには貧弱であり、義弘のときに大改修を行って、三層の天守も構えたとされる。
現在、館山城には模擬天守が造られているが、当時の天守はあったということだけがわかっていて、規模や概要はまったく不明なために、他の城を参考にして造られたとされる。
館山城がある城山は、標高75mと低いものの独立丘で、海に面した要地であり山頂からは館山湾から浦賀水道が一望できる。
明治に入っても東京湾防衛の重要拠点とされ、戦時中は本丸を7mも削平して高射砲部隊を置いた。そのために本丸、二の丸周辺の遺構はほとんど破壊されている。

昭和50年代、公園化の際の発掘調査で、本丸の南側に里見義康の御殿跡ではないかと推定される遺構が見つかった。そのさらに南側には遊歩道に沿って郭跡や堀切が残っている。
さらに遊歩道を進むと八犬伝のモデルにもなった八遺臣の墓があり、さらに城下には鹿島領の領民が普請したとする鹿島堀や土塁、空堀が残っている。
また模擬天守内は館山市立博物館分館となっているが、展示は八犬伝一色と言っていい。博物館本館は麓近くにあって、ここで販売しているさとみ物語は里見氏入門書として最適。
(平成19年3月、20年1月訪問 #20)

参考文献:さとみ物語(館山市立博物館)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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