歴史の勉強

上野国  館林城

    

土橋門

三の丸土塁

城沼

鎌倉時代からの豪族であった赤井照光が築城したとされ、傷を負った子狐を助けた照光の夢に白狐が現れて尾を曳いて城の縄張りを照らして授けたという言い伝えから尾曳城とも言われる。
ただし赤井照光の築城も伝承に過ぎず確証があるわけではなく、いつ誰によって築城されたかは不明であり、築城の経緯もわかっていない。
文明3年(1471年)に上杉軍が赤井氏の居城であった立林城を攻略したとあるのが、館林城が記録に残る最古である。
その後館林城は、その位置から越後の上杉、小田原の北条、甲斐の武田の有力戦国大名の争奪が繰り広げられる地となり、支配者が度々変るが戦国末期にに北条氏が滅び、変って徳川家康が関東に入封するとその領地となった。

家康は領国内の地を有力譜代家臣に与え、館林には四天王の一人榊原康政が10万石で入った。康政は館林城の拡張、城下の整備や治水事業、街道の整備などに力を入れて、館林を近世の城と城下に整備し、この地で没した。
榊原氏は康政の跡を康勝-忠次と継いで陸奥白河に移り、半年ほど天領時代を経た後に松平(大給)乗寿が6万石で浜松から移されて、その子の乗久に代に下総佐倉に移る。
変って四代将軍家綱の弟綱吉が25万石で館林城主となるが、綱吉は延宝8年(1680年)に五代将軍となり、館林は綱吉の子の徳松に与えられるが、徳松は3年後の死去し館林は再び天領となる。
宝永4年(1707年)に松平(越智)清武が入り再び藩領時代となり、松平(越智)氏三代、太田資晴、三度目の天領、太田資俊、松平(越智)氏三代、井上氏一代と続き弘化2年(1845年)に秋元志朝が出羽山形から入り、その子の礼朝の代で廃藩置県を迎えた。相次ぐ藩主の交代では長期安定した藩政は望めず、館林は不安定な藩であった。

館林城はかつては広大な城沼(じょうぬま)に三方を囲まれた城であったが、城沼は埋め立てられて、現在ではかつての本丸の東側に広がっているだけとなってしまった。
本丸跡は広々とした芝生の広場になっていて、一部に土塁が残り、二の丸には市役所、三の丸には図書館と文化会館が建っている。江戸時代までは三の丸、二の丸、本丸の周囲は沼に囲まれていて、それぞれが一本の細い橋で結ばれていたらしい。
現在、遺構としては本丸跡の土塁のほかに三の丸にも土塁が残っているほか、三の丸には位置は違うものの土橋門が復元されている。
(平成20年11月訪問 #13)


武家屋敷・武鷹館

館林城址から東武館林駅へ向かう途中に武家屋敷を移築した武鷹館がある。秋元氏の時代の藩士「伊王野惣七郎」の居宅とされ、江戸時代後期の中級藩士の住宅であるという。
また木造の長屋門は大正時代に建て替えられたものとされ、瓦葺などに替えられているが江戸時代の長屋門の雰囲気を伝えていると考えられている。
公開は原則土日祝日のみで入場は無料、長屋門は小規模ながら展示室になっている。

参考文献:新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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