歴史の勉強

駿河国  田中城

    

田中城下屋敷

三之堀土塁

二之堀

三日月堀跡

本丸のみが方形で、その本丸を中心にして円形の堀を巡らした、いわゆる円郭式と呼ばれる縄張りを有するのが田中城である。兵法では「円形の徳」として、最短の塁線で最大の郭内の広さが確保できる理想形としているが、実際に築かれている例は珍しい。
方形の本丸は46m×56m程度というからさして広くなく、現在は藤枝市立西益津小学校となっている。周囲も宅地開発されて住宅が立ち並び、遺構も多くはないが、堀跡を埋め立てた道路は見事にカーブしており、道路沿いには遺構跡を示す標柱が建っている。
また、本丸跡からほど近いところにあった、藩主の下屋敷跡の一部が整備されて、かつて城内にあった建物が移築され、田中城下屋敷として公開されている。

この城の正確な築城年代はわかっていないが、戦国末期に今川氏の本拠である駿府城の支城の一つとして、存在していたことはわかっている。当時は徳一色城と呼ばれていた。
今川氏は義元のころは海道一の弓取りと称されるほど勢威があったが、桶狭間で義元が討たれて以降は家勢が急降下し、本拠駿河は武田信玄に狙われて蚕食されていった。
永禄12年(1569年)に駿府を攻略した信玄は、翌年正月に西駿河へ侵攻し、田中城を攻めた。城将長谷川能長、正長は開城して武田の城となり田中城と称することとなった。

その武田氏も信玄没後は勢威が衰え、やがて徳川氏が勢力を増してきた。天正10年(1582年)に田中城も武田氏滅亡を前に開城し、徳川領となった。天正18年(1590年)に徳川家康が関東に移封されると、この地は駿府城主中村一氏の領地となった。
関ヶ原役後に中村氏は伯耆米子に移封され、酒井忠利が1万石を得て田中城主となった。忠利は、これまでの城郭を取り囲むように円形の曲輪を設け、その面積は従来の三倍に膨らんだ。
田中城の周囲は湿田であり、城下を築くには不適当であったために、東海道藤枝宿を城下に取り込むべく大手門を変更して藤枝宿との連携を取り、同時に藤枝宿の整備も行った。

忠利は慶長14年(1609年)に武蔵河越に移され、この地は駿府領となる。駿府は家康の十男でのちの紀州家の祖徳川頼宣に与えられるとともに、家康の隠居城でもあった。 家康は田中城を拠点としての鷹狩を好み、ために田中城は御殿として整備されることとなった。かつての大手口である平島口から東海道に至る道が御成道とされ、書院建築の御殿が建てられた。
家康が鯛の天ぷらを食べ過ぎて、それがもとで没した話は有名であるが、その天ぷらを食したのも田中城である。
頼宣が紀州に移されると、それ以後は徳川忠長の駿府藩領や幕領の期間を経て、松平(桜井)忠重が寛永10年(1633年)に2万5千石で入封して大名領となった。
そののちは水野-松平(藤井)‐北条‐西尾‐酒井‐土屋‐太田‐内藤‐土岐と小譜代大名領として頻繁に領主が交代し、享保15年(1730年)に本多正矩が4万石で入封してようやく定着し、幕末まで本多氏七代が継承した。

先に書いたように、遺構の多くは失われており、本丸跡も学校になっているので、下屋敷を拠点に徒歩で巡ることになる。下屋敷には本丸にあった櫓が移築されている。
この櫓は天主のない田中城で、その代用とされた格式のあるもので、本丸東隅の土塁上にあり、藩主が休息や観月、七夕などに利用したとされる。藩政時代は杉で葺かれていたが現在は銅板葺に改められており、民間に払い下げられたものを移築したものである。
このほか下屋敷には中間部屋と厩、長楽寺村郷蔵などがあり、入城も無料である。下屋敷のすぐ北側にある六間川は、外堀でもあり、また堀に水を引くとともに運河としても利用された。
本丸近くにはひっそりと土塁や二之堀、ごく小規模な三日月堀跡などが残る。いずれも住宅に囲まれてしまっており風情はないが、今となっては貴重な遺構である。
(平成26年9月訪問 #112)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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