歴史の勉強

陸奥国  棚倉城

    

内堀

大手門と土塁

北二の門(右側に礎石)

移築南門(長久寺山門)

福島県棚倉は、江戸時代には代々譜代大名が治める地であった。もともとこの地には赤館と呼ばれる中世城郭があり、関ヶ原後の慶長8年(1603年)にこの地に入った立花宗茂(関ヶ原では西軍に属し家康に敵対して改易されたが、その名声を惜しむ家康は宗茂を赦し、大名に復帰させ棚倉1万石を与えた)も赤館を居城とした。
宗茂は元和6年(1620年)に旧領の筑後柳河に転封となり、短い天領期間を経て元和8年(1622年)には丹羽長重(やはり関ヶ原役で西軍に属し改易され、その後赦されて大名に復帰)が常陸古渡から5万石でこの地に入った。
長重は中世城郭であった赤館では5万石の城としては相応しくないとして、新たに都々古和気神社の地に新城を築くことにした。
寛永2年(1625年)に工事が開始されたが、長重はその完成を見ないまま寛永4年(1627年)に陸奥白河10万石に転封となった。

棚倉が譜代大名の城となるのはこれ以降で、内藤氏三代、太田氏、松平(越智)氏、小笠原氏三代、井上氏二代、松平(松井)氏四代、阿部氏二代と続き廃藩置県となった。
棚倉への移封は左遷の意味合いが強いことが多く、江戸時代には典型的な悪地とされ、表高と実高の差がマイナス方向に大きかったといわれる。
久慈川左岸の段丘に築かれた城は平城で、中央に本丸を置いて内堀で囲み、さらに二の丸がその周囲を取り囲んだ。その外を外堀が囲んで、二の丸の北側に三の丸を配するという輪郭式の城である。
城地全体は東西300m、南北400mといわれ、そのうち現在でもよく残る本丸部分が東西110m、南北170mほどである。本丸を囲む内堀は25~30mの幅があり、さらに高さ5~6mの土塁で囲まれている。
本丸の土塁は横矢掛りをもち、四基の二重櫓が建てられ、その内側が本丸御殿であった。本丸は南東側と北側が枡形虎口で二の丸と結ばれており、南東側が大手、北側が搦手でそれぞれ櫓門があった。

二の丸には侍屋敷や蔵屋敷が置かれ、東西南北の4ヶ所に虎口があった。このうち東門が追手門、西門は埋門であり、北東には三の丸に通じる橋が架けられていた。ただし三の丸からはこの橋だけが唯一の連絡で、外から三の丸には直接入れなかったらしい。
棚倉城は土で造られた城であるが、二の丸の西側にのみ鉢巻石垣が築かれており、棚倉中学校の敷地内から見ることができるが、整備はいまひとつで、見学した時期にはすでに夏草が覆い石垣はあまり見えない状態であった。
棚倉城は土造りの城として遺構がよく残り、二の丸、三の丸は宅地化されているものの、本丸部分はほぼ完全な形で残り、その雰囲気を満喫できる貴重な城である。
また城下の北側の長久寺には移築された二の丸南門がある。この門は築城時のものといわれ、太田資晴が寄進したとされ、棚倉城の建築遺構としては唯一のものである。
(平成21年5月訪問 #69)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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