歴史の勉強

丹後国  田辺城


この城の雅称を舞鶴(ぶかく)城という。城が鶴が舞う姿であったことからの命名で、明治初年になって、藩名をそれまで田辺から舞鶴に改称し、それがそのまま地名になって現在に至っている。
舞鶴は西と東に市街が完全に分かれている。東舞鶴は軍港で、旧海軍は鎮守府を起き、戦後は大陸からの引揚者を迎え、現在でも自衛隊が地方総監部を置く。湾内に深く、軍港の適地であるとして明治以後に開かれた。
一方の西舞鶴は城下町であり、そのはじまりは室町期に丹後守護となった一色氏がこの地に築城したとといわれているが、よくはわからない。

丹後が織田信長の軍によって攻略され、天正6年(1578年)に細川藤孝(幽斎)が丹後一国12万石を与えられた。このときの一色氏の拠点は宮津八幡山城で、藤孝は当初八幡山に入ったが、天正8年(1580年)には宮津城に移っている。
このとき田辺には藤孝の嫡男で、のちに近世細川氏の初代となる細川忠興が入った。したがって戦国期には丹後の中心は宮津で、田辺は支城のような存在であったのだろう。
慶長5年(1600年)に関ヶ原役がはじまると、徳川陣営であった忠興は、細川の軍勢を率いて家康に従って会津征伐に向った。
その間、領国の留守は父藤孝が守った。やがて石田三成が西軍を旗揚げし、手薄な丹後には丹波福知山城主小野木公郷の軍勢が押し寄せた。

藤孝は宮津城を焼き、田辺城で籠城する。これが有名な丹後田辺城攻防戦で、西軍は都合1万5千人をもって城を囲んだ。一方の籠城軍はわずか5百。
いくらなんでも数の差がありすぎ、普通ならば落城確実だが、藤孝は一歩も引かずに50数日間籠城し、ついに天皇の仲介によって攻防戦は中止され、西軍は兵を引き、藤孝は開城した。
藤孝は田辺城攻防戦で西軍の1万5千を引きつけて一歩も引かず、嫡男忠興は武闘派として関ヶ原役で活躍し、戦後細川氏は豊前小倉39万9千石に加増転封となり、丹後には京極高知が12万3千石で入った。元和8年(1622年)に高知が没すると、その遺言により丹後の国は三分された。
すなわち、長男高広が宮津7万5千石、二男高三が田辺3万5千石、養子高信が峰山1万3千石である。ここに田辺藩が成立し、高三-高直-高盛と続いて寛文8年(1668年)但馬豊岡に転封、代って京都所司代であった牧野親成が3万5千石で藩主となり、牧野氏が廃藩置県まで10代約200年に渡って支配した。

    

模擬隅櫓

復元本丸櫓門

天守台跡

藩校明倫館表門
   

田辺城は東に伊佐津川、西に高野川、北は湾、南は湿地帯という天然の防御の中、さらに堀で本丸、二の丸、三の丸を、外曲輪を配した平城である。
舞鶴警察署の前にある舞鶴公園が、当時の本丸と二の丸の一部である。警察に向かい合って、平成4年に復元された大手門があり、その二階は入場無料の田辺城資料館になっている。
大手門の左手には昭和15年(1940年)に建てられた模擬櫓があり、内部は彰古館として文化財や錦絵などが展示され、こちらも入場無料である。
そのほか公園内には石垣や堀跡が残る。天守台跡の石垣は現存する遺構の最大規模のものであるが、天守自体は比較的小振りであったようである。
また、藩校あった明倫館表門が警察署隣にある、その名も明倫小学校に現存している。

遺構としては、ほとんど残っていない田辺城だが、園内には古今伝授の松がある。古今伝授とは「古今和歌集」の解釈を伝える奥義である。
「古今和歌集」は延喜5年に紀貫之らによって編まれた歌集で、大変に難解なものであった。その解釈は師匠から弟子へと伝えられるのだが、その中で弟子は自身の解釈をし、その解釈を師匠に判定してもらう。
このようにして「古今和歌集」の解釈は人から人へと伝えられ、その解釈には秘事もあった。学者大名でもあった細川藤孝は、その解釈の奥義を極め、古今伝授を伝える唯一の者であった。
藤孝が田辺城に籠城したころ、藤孝は後陽成天皇の弟智仁親王に古今伝授を行っていた。藤孝を殺してはならぬ、ということで朝廷が動き、後陽成天皇の勅命によって城は開かれ、藤孝は救われた。
このことに由来するのが古今伝授の松で、最初は牧野親成により植樹されたという。その後、落雷や虫害などで枯れたり、伐採されたりして、現在の松は六代目という。
(平成21年8月訪問 #27)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、田辺城パンフレット、関連ホームページ

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