歴史の勉強

伊勢国  田丸城

    

大手二の門

富士見門

本丸虎口

天守台

田丸城は三重県度会郡玉城町に位置し、古くは伊勢神宮への参宮街道と熊野へ向う熊野街道が分岐する地として栄えたという。
現在はJR参宮線が走り、田丸駅がある。駅から西北に500mほど歩いた玉城町役場一帯が城跡であり、伊勢自動車道からも近い。
役場自体も城内にあり、堀をその名も大手門橋で渡って入る。役場の先が大手二の門で、複雑な折れを持った枡形が石垣とともに迎えてくれる。
田丸城の縄張りは、中央に不整長方形の本丸、その北に北の丸、南に二の丸がが直線的に並び、それらの東側に三の丸が配された。
役場のあるのは三の丸で、その周囲を水堀で囲んでいたが、現在では堀は大手周辺と二の丸の南東に残るのみである。

三の丸には玉城中学校があるが、遺構はよく残っている。とくに石垣は見事であり、失礼ながらあまりメジャーな城ではないために人もほとんどおらず、ゆっくりと散策できる。
三の丸には長屋形式の富士見門が移築されている。江戸中期の門といわれ、乙部家に移築されていたものが昭和59年に再移築されたものであるが、旧位置とはまったく関係がない。
三の丸からは直接本丸に入れる。この本丸への虎口の石垣も見事である。本丸内には穴蔵を持つ天守台が残る。ただし天守台の階段は近代の改変という。
本丸の北側の北の丸はほとんど手が入っておらず、高石垣が見事。また南側の二の丸には富士見台といわれる櫓台の石垣が残る。

南北朝時代に北畠親房が南朝方の拠点として築いたのが田丸城の最初とされる。北畠氏は南朝の主力であり、交通要地のこの地に城を築き、愛洲三郎左衛門に守らせた。
南北朝の争奪が続いたが、南北朝統一後は北畠氏の領有となり、愛洲忠行が城主となった。愛洲氏はのちに田丸氏を名乗り、やがて南勢を領した蒲生氏の家臣となった。
一方、北畠氏は伊勢国司として君臨していたが、永禄12年(1569年)に織田信長が伊勢に侵攻すると支えられず、信長の二男信雄をその養子に迎えた。
信雄は大河内城に入り、これにより田丸城は破却されたが、天正3年(1575年)に信雄は再び田丸に居城を移した。信雄は田丸城を大改修して、曲輪を拡張整備し三重天守を設けた。

新たに南勢支配の拠点となり、信長二男に相応しい偉容を備えた田丸城であったが、その期間は長くはなかった。天正8年(1580年)に金奉行某が焔硝蔵に放火し、城内はことごとく焼失してしまった。
これにより信雄は田丸城を放棄し、松ヶ島に新城を築いた。これがのちの松坂城である。松ヶ島には天正12年(1584年)に蒲生氏郷が入り、家臣の田丸直昌を田丸城主に復帰させた。
天正18年(1590年)に氏郷は会津に移り、それに伴って田丸氏も陸奥三春に移る。代って田丸城には稲葉重通が入った。稲葉氏は城の大改修を実施した。現在残る石垣など遺構の大部分は稲葉氏時代のものである。
稲葉氏は元和5年(1619年)に摂津中島に転封となり、この地は紀伊徳川家の封地となった。田丸には紀伊家の付家老久野氏が入り、明治まで久野氏が城主であった。
(平成23年3月訪問 #72)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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