歴史の勉強

但馬国  竹田城

    

大手門虎口

本丸より南千畳を望む

本丸より花屋敷曲輪を望む

南二の丸から見た天守台

平成21年8月6日木曜日午後、国道312号線を竹田城目指して走る。屈指といわれる山城、石垣の見事さ、ぜひ一度見たかった城だが、天候不順の影響であいにくの空模様。
豊岡方面から走ってきたが、途中でスコールのような雨にあい先行き不安になるが、和田山付近からは路面に雨の跡もなく乾いていた。だが、空には重い雲がかかり判断が難しい。
やがて右手に古城山が見える。虎臥山とも言うそうだが、その山頂付近には国道からでも石垣がよく見える。これは行くしかないと国道を逸れて、山に向かう細い道を上がる。
駐車場に車を入れると、ほかに10台近く車があり人も結構いる。駐車場外れにある案内図を取り、大手門への道を進む。しかし…かなり進んだあたりで大粒の雨、それも段々強くなる。
傘を取り出すが雨脚は強く靴もびしょびしょで容赦なく雨が侵入。大手門を入ったところの北千畳の木の下で雨宿り。木の下にはもう一人傘をさして雨宿りしている人がいたが、その人は地元ボランティアのガイドさんだった。

この日は淡路島からの団体さんのガイドの予定が、鉄道のダイヤの乱れでキャンセルになったとのこと。雨宿りしながら竹田城の話などを伺ったあと、雨が小止みになると城内を案内していただいた。
大手門を入ったところが北千畳、そこから三の丸に出ると谷を隔てて本丸と天守台が見える。武の門を入り二の丸、その先が本丸で東側に張り出すように天守台がある。
本丸西側には空に飛び出すように設けられた花屋敷曲輪。南側には南二の丸と南千畳が続く。本丸からのパノラマははるか南側眼下に竹田のこじんまりした町並み、北側には播但自動車道、周囲に広がる田園。
古城山は標高354mの独立峰で、その頂上部に本丸があるから360度死角はなく、戦略的にも絶好の位置にあることがよくわかる。石の山でもあって、ここの石垣はほとんどが古城山の石を使っているとのことだった。

城の案内図に付された竹田城概要によれば、この城は嘉吉年間(1441~4年)に守護大名山名宗全の有力家臣のひとりである太田垣氏により築かれた。
最初は砦に近い小さな城であったが、文禄年間(1592~5年)から廃城になった慶長5年(1600年)に近い頃に、いまのような豪壮な石積みの城となった。
石垣は安土城と同じ穴太積みの技術を用い、縄張りの見事さは全国でも指折りの城郭といえる。竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天守台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、花殿(花屋敷)を配し、さらに鳥が翼を広げたように、その南北をそれぞれ南千畳・北千畳とした。城の規模は南北約400m、東西約100mでいまなお当時の偉容をほこっている。

他の資料から補足すると…城が築かれたのは嘉吉3年(1443年)で、太田垣氏は山名四天王といわれるほどの重臣であったが、織田軍による但馬侵攻を受けて落城、秀吉の弟秀長が城代を勤めたこともあったらしい。
信長亡き後の天正13年(1585年)赤松広秀が城主となり、広秀によっていまある姿が完成された。広秀は斎村政広ともいい秀吉に降伏して蜂須賀正勝の配下となり、やがて竹田で2万2千石を得る。
しかし関ヶ原では西軍に与し、のちに東軍に寝返った。西軍残党の宮部長房が拠る鳥取城を攻めたが、その際に城下を焼き討ちにし、これが家康の不興を買って結局切腹のうえ竹田城は廃城となった。
石垣は自然石や粗割石を横に積んで、間詰石を詰めるという典型的な文禄~慶長前期の工法で、城内各所で間近に見ることができる。
天守を含めて櫓の総数は20基前後と推定されるが、赤松氏の所領高からみて、豊臣政権が築城に直接関与した可能性が高く、その理由は戦略的見地からと推定される。

さて、本丸から南二の丸に下りる。ここから本丸、天守台を眺めるのがもっともいい構図だそうだ。案内図にもない道を下り駐車場と大手門を結ぶ道路に出る。
見上げると高い位置に石垣が見える。すぐ近くに車が停めてあるそうで、駐車場まで車で送っていただいた。駐車場には自分の車がポツンとあるだけだった。
皮肉なことにこのころから雨は小降りになり、山を降りて暫くするとあがったようだ。写真では雨など降っていないようだが、実際はかなりの雨。
もう一度雨でないときにゆっくりと訪れたい城である。なお、ガイドさんによれば百名城になってから観光客が増え、とくに関東方面からの人が多いそうだ。城への細道は春秋大渋滞し、駐車場まで行き着くのにも相当時間がかかるそうだ。
(平成21年8月訪問 #34)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、竹田城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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