歴史の勉強

遠江国  高天神城

    

搦手側より遠景

大手門跡

搦手門跡

堀切

本丸跡

大河内政局幽閉の石窟

古くより「高天神城を制する者は、遠州を制す」といわれた高天神城は、標高130mあまりの高天神山(鶴翁山)のことであり、東西二峰からなる山城である。
遠景写真でもわかるとおり、高天神山自体はけっして大きな山ではないが、急斜面であるために登るのはすこぶる困難であり、実践的かつ堅固な戦争向きの城であるといえる。
高天神城はこの地域としては最大級の要害であり、また東海道を南から約する位置にあるほか、遠州灘から牧の原台地まで見渡せるために要の城であることは確かだが、それは東遠州地方の重要拠点という程度で、遠州全体を制するとするには少し大仰である。

高天神山の南側が大手門、北側が搦手門になり、どちらからの道もよく整備されて容易に登れる。ただし傾斜は急であり、通路以外から登ることが非常に困難な状況がよくわかる。
大手、搦手どちらからも上りきったところが井戸曲輪で、かな井戸が残る。この井戸曲輪が東西両峰の間の鞍部にあたる。西峰は高天神社が建つ西の丸を中心として、その北側に一段下がって二の丸から袖曲輪、堂の尾曲輪など各曲輪が連なり、また二の丸の西側には堀切を隔てて馬場がある。
一方東峰では、本丸とその東に隣接する御前曲輪が中心となり、さらに東側に一段下がると三の丸がある。また本丸の北側の帯曲輪沿いには家康の家臣大河内政局が幽閉されたという石窟(石風呂)が残る。
東峰は土塁を曲輪を組み合わせた典型的な中世山城の縄張りであり、本丸など各曲輪もさして広くはない。西峰は戦闘を念頭に置いて堀切、土塁、曲輪を巧に配置している。

高天神城の築城については、永正年間(1504~20年)に駿遠両州の大名であった今川家の被官福島左衛門尉助春を城代としていれた、という記録が初見であり、その前いつ頃からあったのかはわかっていない。
いずれにせよ、今川氏は高天神城を掛川城ととも東遠州の拠点として整備したのは間違いなく、それまでは比較的小規模な城郭であったのだろう。
福島氏はやがて没落し、その後には小笠原氏が城代となった。しかし今川氏は桶狭間の戦いで当主義元が討ち死にして一気に勢力を失い、今川氏の旧領は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康に侵食される。

これにより小笠原氏は徳川氏の家臣となり、高天神城も徳川氏の支配下に入った。やがて遠州の地は武田、徳川両軍の最前線となり、衝突が繰り返される。元亀2年(1571年)には武田信玄が2万5千ともいわれる軍勢で高天神城を攻撃したが、ときの城主小笠原氏清はよく防ぎ、信玄も犠牲の多さに無理攻めをせずに撤退した。
その後に信玄が死去し跡を継いだ勝頼が天正2年(1574年)に高天神城を攻め、二の丸が落城した。家康は単独で救援軍を編成できずに織田信長を頼ったが、一向一揆の跳梁により信長の援軍はままならず、高天神城主小笠原信興は開城して勝頼に降った。

しかし翌天正4年に勝頼は設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に大敗を喫し、この直後から家康は遠州方面での軍事活動を活性化させる。
勝頼は高天神城を拡張して今川の降臣岡部元信を守将と、一方の家康は遠州の諸城を次々と落として、高天神城を孤立させた。
天正8年(1580年)家康は高天神城攻略の為に、小笠、納ヶ坂、師々ヶ鼻、中村(2ヶ所)、大坂の6砦(ほかに2ヶ所あって8砦とも)を構え、翌天正9年4月22日岡部元信以下が討ち死にして落城した。なお、城は落城によって廃城となった。
大河内政局は小笠原氏に付された軍監であったが、天正2年に勝頼によって落とされた際に、ただ一人降伏せず、怒った勝頼に石窟に幽閉された。以来天正9年に家康に救出されるまで足掛け8年、石窟で過ごしたという。
(平成20年10月訪問 #42)

参考文献:別冊歴史読本:戦国の攻城戦、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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