歴史の勉強

信濃国  高島城

    

復興天守

本丸角櫓

冠木橋と冠木門

三之丸御殿裏門

江戸時代、諏訪湖は高島城のすぐそばまで広がっていたと言われる。と言うよりも、諏訪湖の畔に高島城が築かれたのである。そのために高島城は水城とも浮城ともいわれていた。
もともと諏訪の地は持統天皇5年(691年)に天皇が勅使を派遣し諏訪社が開かれたとされる。もっともこの説は日本書紀の記事からのもので、諏訪社の成立についてはほかにも諸説ある。
それはともかく、諏訪社の神官であった諏訪氏はやがて武士化し、鎌倉時代には幕政に関与するほど活躍した。しかし鎌倉幕府滅亡時に諏訪氏は最後まで北条氏に与し、北条残党の反乱である中先代の乱でも反乱の中心をなした。
そのために南北朝期から室町期には諏訪氏は衰退し、さらに大祝家と惣領家に分かれて対立し抗争が起きた。抗争は文明15年(1483年)ころにピークとなったが、その後に惣領家に諏訪頼満がでて統一に成功した。

永正15年(1518年)諏訪郡を制圧し支配下に置いた頼満は、隣国甲斐の武田信虎とも互角に戦い、やがて武田氏と和睦した。
だが、信虎がその子晴信(のちの信玄)に追放されると状況は一変し、自然災害も重なって天文11年(1542年)に切腹して果て、ここに諏訪氏の支配は終わりを告げる。
諏訪は宮川より東を武田領とされ、西を高遠頼継が治めたが武田氏に叛旗を翻して滅ぼされ、諏訪全域は武田領となった。武田氏の支配は約40年に渡るが、その間は諏訪には戦いはなく安定期であった。
武田氏は信玄の子の勝頼のときに織田信長によって滅ぼされ、その信長も本能寺で斃れた。この隙に諏訪社の神官になっていた諏訪頼忠が諏訪の地を奪還し、40年ぶりに諏訪氏の支配が復活する。

本能寺の混乱が収まると諏訪を含む信濃一円は徳川家康の領地となった。家康は本能寺とその後の混乱期に信濃と甲斐に出兵しどさくさまぎれに領土を拡大したのだ。
諏訪氏も家康の配下となり、家康がかんとうに移封された際には諏訪氏も関東に移っている。その後に秀吉の家臣である日根野高吉が諏訪に入った。
高島城を築いたのはこの日根野高吉であった。諏訪の城は天文18年(1549年)ころまでは上原城といい、現在の諏訪市と茅野市の境界付近であった。
武田氏の城代であった長坂虎房が茶臼山に拠点を移し高嶋城と称した。ちょうど上諏訪駅を挟んで現在の高島城と反対側になる。
天正10年(1582年)ころに諏訪頼忠が今度は下金子に拠点を移した。中央道諏訪ICの少し北西のあたりであり、この下金子の城から平城になった。

日根野高吉は諏訪に入ると新城を計画し、諏訪湖に突き出た島に着目して築城を開始、慶長3年(1598年)に完成した。日根野氏は慶長6年(1601年)関ヶ原役の翌年に下野壬生に転封となり、代って諏訪氏が高島の新城に入る。諏訪氏の三度目の支配は明治維新にまで及ぶ。ちなみに高島城の名は、諏訪湖に突き出た島の名に由来する。
築城時の高島城は、本丸の北に大手門を配し、そこから南に向って三之丸、二之丸、本丸と一直線に並べた連郭式で、本丸の南には南の丸が置かれた。
三之丸には御殿のほか重臣の屋敷や勘定所など、二之丸には家老屋敷のほかに蔵や馬場など、本丸は石垣が築かれその北西角に小天守を従えた天守閣を置いた。
天守は三重ので、屋根には瓦を使わず桧の薄い板を葺いた柿葺きとされた。これは諏訪地方の寒冷に瓦が堪えられなかったためとされる。また、本丸の石垣は野面積みで、本丸に天守のほかに藩主御殿や書院、御用屋敷など多くの建物があった。

現在の高島城は本丸部分が高島公園として残り、天守、本丸表門(冠木門)、角隅が復元されている。明治4年撮影の古写真をもとに昭和45年(1970年)に復元された。
とくに天守は一層目の異様に大きい入母屋、三層目の出窓などがバランスを欠いているが、これは安土桃山期から江戸初期あたりまでの特徴とされる。
比較的早い時期の復元であり、コンクリート製なのはやむを得ないとしても、比較的史実に忠実に復元したことは大いに評価されるべきことである。また、屋根は銅版で葺かれていて、天守内部は博物館になっている。
また、公園内に三之丸御殿裏門が本丸川渡門の位置に移築されて現存している。
(平成20年12月訪問 #26)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、戦国時代の諏訪(諏訪市教育委員会)、高島城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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