歴史の勉強

上野国  高崎城

    

三の丸出枡形

三の丸土塁

乾櫓

東門

現在の地に高崎城を築いたのは、徳川四天王の一人である井伊直政で、慶長3年(1598年)のことであった。高崎城の前身は中世城郭の和田城で、この地の豪族和田氏の居城であった。
和田氏は上州を拠点とした山内上杉氏に従属したが、上杉氏は憲政の代に後北条氏の圧力の前に屈して越後に逃れ、長尾景虎に関東管領と上杉の家督を譲る。即ち、上杉謙信である。
これ以後、和田氏も謙信に属するが、のちに謙信に敵対する武田氏に内通し、武田氏滅亡後は後北条氏に属した。天正18年(1590年)の秀吉による小田原攻めで後北条氏は滅び、それは和田氏の滅亡でもあった。
後北条氏に代って関東に入った徳川家康は、上州箕輪城に井伊直政を12万石で封じた。直政は家康の信頼がことのほか厚く、12万石は家臣第一等の石高であった。
慶長3年に直政は、交通不便な箕輪城から交通の要地である和田城に移り、高崎城と改めた。同時にそれまでの中世城郭を大拡張して近世城郭とした。

高崎の地は交通の要衝であり、また江戸期には越後の諸大名や北陸の前田氏への備えの地として、代々譜代大名が支配した。
井伊直政は関ヶ原役後の近江彦根に転封され、その後は諏訪氏、酒井氏、松平(戸田)氏、松平(藤井)氏、安藤氏三代、松平(大河内)氏、間部氏とめまぐるしく変わる。
間部氏は詮房が六代将軍家宣の側用人から高崎5万石の大名となったことに始まるが、八代吉宗が将軍になると失脚して越後村上に左遷され、高崎には再び松平(大河内)氏が入り明治まで十代続いた。
江戸期の高崎城は天守に代る御三階櫓のほか本丸隅櫓四基、土居と堀で囲われた典型的な関東の近世城郭であり、さらに城の西側は烏川を天然の要害とし、和田城の遺構を取り入れて中世城郭の色濃い趣であったという。

各曲輪は複雑に入り組んで、その間を水堀と空堀が囲み、本丸には容易に近づけない堅城であったが、明治になると歩兵第15連隊の衛戍地となって遺構の破壊が進み、戦後は市役所をはじめとする公共施設が建設される。
三の丸を巡る水堀と土塁が残るが、土塁の下部を補強する石垣は偽物である。また、本丸内にあった乾櫓と三の丸の門であった東門が大手門跡に移築されている。
乾櫓は寛永年間(1624~1644年)に造られたもので、郊外の民家にあったものを再移築したもので、1階と2階が同じ大きさで破風もない武骨な造りである。なお、櫓が載る石垣も本来はなかったもので、偽物である。また東門は長屋門で、これは城門としては珍しい。
高崎城はまた、徳川忠長が自刃した城でもある。家光の弟として生まれ、家光よりも優秀であり、両親の寵愛も受けて将軍位も夢ではなかったが、家康の一声で将軍は家光と決まり、その後は家光に疎まれ封地の駿河で乱行に及んで自滅してしまう忠長の墓は城と駅の中間の大信寺にある。
(平成21年1月訪問 #23)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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