歴史の勉強

讃岐国  高松城

艮櫓

         
城下町高松の歴史は、豊臣秀吉から讃岐に封じられた生駒親正が、天正16年(1588年)にこの地に城地を定めたことに始まる。
親正は永禄9年(1566年)に織田信長に仕え、信長没後は秀吉に仕えて数々の軍功を挙げた典型的な織豊大名であるが、一代で一国一城の主になったのだから、運と才に恵まれていたのだろう。
親正が入国するまでの讃岐は、阿波との国境に近い引田が中心であったが、あまりに東に偏り過ぎており、親正は瀬戸内に面した遠浅の地に高松城を築城したのである。

親正の築いた城は海城であった。海際に築かれた城の堀には海水が入り、干満によって水位が上下し。それを調整するために水門が設けられた。いまでも堀には魚が泳いでいるという。
「讃州讃岐は高松様の 城が見えます波の上」と謡われ、今日では埋め立てにより海際ではなくなったものの、海城としては比較的早期に築かれ、また最大の海城でもあった。
城を縄張りしたのは黒田如水ともいわれ、また細川忠興や藤堂高虎との説もあってはっきりしないが、如水は中津城、高虎は今治城と同じく水城設計に縁があり、彼らの協力で築城されたというのもうなずける。

生駒氏は親正の後、一正、正俊と続き、四代目の高俊の時に有名な生駒騒動により改易され、2年間の無城主期間を経て寛永19年(1642年)に松平頼重が12万石を得て城主となった。松平頼重は、御三家のひとつ水戸徳川家の祖頼房の長男で、有名な徳川光圀の実兄である。
頼重が生まれたとき、頼房の兄である尾張徳川家の義直と紀伊徳川家の頼宣にはまだ子がなく、兄を差し置いて子ができてしまった頼房が遠慮して出生を秘した。
二男光圀が生まれた時には、2人の兄にも子があったので光圀を嫡子とし、のちに頼房は別家して讃岐高松を与えられという。松平氏には四国や九州の諸大名監視の役があったもいわれ、明治まで十一代にわたって継承した。

この城の海城らしさがよく残るのは城址の北側、国道30号線(水城通り)に面した着見櫓と水手御門だろう。高松城は天正18年(1590年)には、ほぼ完成したとされるが、松平頼重が入ると大改修された。
大手門も移され、現存する着見櫓と水手御門も松平氏時代に造られたもので、完成は松平二代藩主頼常の時の延宝4年(1676年)とされる。ちなみに頼常は光圀の実子である。
兄を差し置いて水戸藩主となった光圀が、実子の頼常を兄頼重の養子とし、兄の子の綱條を自らの養子として水戸家を継がせた。つまり兄の系統と自分の系統を入れ替えたわけで、いかにもこだわりの光圀らしい。

さて着見櫓と水手御門だが、着見櫓は「つきみやぐら」と読み、船の到着を監視する目的の櫓である。三重の櫓は唐破風や切妻破風を多用し、南側に付櫓、水手御門、多聞櫓を連結している。
水手御門は直接海に出るための門で、満潮時には石垣の裾まで海水につかり、門を開けば船着きの雁木石段の半ばまで海水が浸す。海城に特有の門であるが、現存例は全国唯一である。
また堀には海水が引き入れられていたが、水位調節のための水門が桜門手前の土橋下や二の丸と三の丸を繋ぐ土橋下に設けられており、今でもその役を果たしている。


左:着見櫓と水手御門、右:二の丸と三の丸間の水門

往時の高松城は、内堀の内側にポツンと四角い島のような本丸があった。まさに人工島のような感じで、北側(海側)の二の丸との間は木橋が1本架かるだけであった。
本丸は狭く、東端には三重四階の天守があった。天守は最上階の4階が一つ下の3階より大きく作られ、結果的に外側に張り出し、また1階も天守台より一回り大きくて外側に張り出す、いわゆる南蛮造りであった。
本丸西南には地久櫓があり、天守と地久櫓は多聞櫓で結ばれていたほか、櫓は4基あった。二の丸との間の木橋は、江戸中期から屋根が架かる廊下である鞘橋となった。


左:本丸天守台、中:地久櫓跡、右:天守台から鞘橋を見る

本丸が狭いために御殿は二の丸に設けられた。二の丸の北側はすぐに海で、西側には黒鉄門があって西の丸と結んでいた。現在、高松駅側から城址に入る券売所があるのが、この黒鉄門跡である。
二の丸の東には三の丸があった。二の丸と三の丸の間には黒鉄門があり、その先の土橋の下に水門があって堀の水位を調節していた。三の丸の北東隅は寛文11年(1671年)に改修されて北新曲輪が設けられ、着見櫓や水手御門のほか北東隅は鹿櫓があった。
さらに三の丸の東側には、同年に東の丸が設けられ、その北東隅には艮櫓があった。艮櫓は、昭和42年(1967年)に太鼓櫓跡に移築され現存する。ただし往時とは90度向きが変えられている。香川県民ホール下に艮櫓の櫓台が残っている。


左:西の丸との間の黒鉄門跡、右:本来の艮櫓跡

三の丸の南側には桜門があって、寛文11年以降はこの門が内城への正門となった。同時に三の丸には披雲閣御殿が建てられた。これに伴って従来の大手門は廃され、代って太鼓門が大手門の役割を担った。
桜門の南側を桜の馬場と称し、その東側が太鼓門である。駐車場側から城址に入る券売所のあるのが太鼓門で、現在は太鼓門外門である旭門と土塀、穴門がが残るほか、前述のとおり太鼓櫓跡には艮櫓が移築されている。
旭門は高麗門形式で、その手前の堀に架かる旭橋は堀を斜めに渡っている。三の丸、二の丸、本丸、桜の馬場が、高松城の別称である玉藻の名を冠した公園となっている。(平成27年8月訪問 #125)


左:太鼓門跡枡形、右:旭門と旭橋

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、名城を歩く・高松城丸亀城(PHP研究所)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、高松城パンフレット、関連ホームページ

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