歴史の勉強

越後国  高田城

復興された三重櫓

    

大手門へ通じる極楽橋

本丸跡

復興された三重櫓

在りし日の高田城

戦国時代、越後の中心は春日山城であった。現在の上越市春日山、JR信越線の直江津駅と高田駅の間あたりで春日山という駅もあり、山の下を貫く北陸道のトンネルは春日山トンネルという。
春日山城は越後上杉氏の守護代であった長尾氏により築かれた城であった。長尾氏は下克上によって主家の越後上杉氏を滅ぼし、のちには山内上杉氏から関東管領職と上杉姓を譲られ上杉を姓とした。
やがて上杉謙信により全盛期を迎えるが、義に生きた謙信は積極的に天下を望まず、その勢力圏は越後、越中を中心に能登、加賀、北信濃などに留まった。
謙信は天正6年(1578年)に急死し、そののち家督争いである御館の乱を経て上杉景勝が家督を取った。時代は戦国末期を迎え、景勝は豊臣秀吉に臣従し越後で100万石を超える大大名となる。
景勝を警戒する秀吉は、領民との結びつきを絶ち、伊達や最上などの東北大名への牽制の意味もこめて景勝を会津120万石に転封する。代って春日山には秀吉の側近武将堀秀治が45万石で入城する。

山城であった春日山を嫌った秀治は、海沿いの直江津の東側に新城福島城を築く。福島城築城中に秀治から忠俊に代わりし、さらに慶長15年(1610年)には一族の内紛から改易されてしまう。
この改易は外様大名取潰し政策の一環といってよく、堀氏の後には家康の六男で長沢松平家を継いでいた松平忠輝が75万石の大封で入る。
忠輝は水難を避けるために福島城の南8Kmの菩提ヶ原に新城を築くこととし、生母茶阿局を通じて幕府に願い出た。
幕府としても前田、上杉牽制の観点からこの付近を重要地点と考え、江戸城・駿府城・名古屋城などと並んで国役普請で行うこととし、忠輝の岳父伊達政宗を普請総裁にして手伝いを加賀藩など13の外様大名に命じた。
この菩提ヶ原の新城が高田城である。高田城築城工事は慶長19年(1614年)3月15日に着手し、7月上旬に完成という早さであった。
規模は、内郭(本丸・二の丸)東西300間、南北470間、土居廻り1570間、外郭(三の丸)東西611間、南北763間という広大なもので、城下には旧春日山、旧福島の両城下にあったものを根こそぎ移したとされる。

ところが忠輝はもともと父家康に疎まれていたが、そこにもってきて血気盛んであり、ことごとに兄の将軍秀忠や父家康の気に障るようなことばかりやる。
そしてついに家康の死後の元和2年(1616年)に改易となり伊勢朝熊に流されてしまう。このころには世が安定し、前田や上杉への押さえとしての高田の地位も相対的に低下していった。
高田藩は幕末まで、ごく短い期間を除いて存続するが松平光長が26万石を得たのが最高で、寛保2年(1741年)から120年余りに渡り藩主であった榊原家は15万石であった。
忠輝改易の後、酒井氏二代2年半、松平忠昌5年の在藩の後に越前福井から松平光長が入る。父忠直が乱行によって改易(越前騒動)され、その長男であった光長は改易を免れての入封であった。左遷である。
光長の時代はのちに越後様時代と言われるほど安定した時代で、それによって高田の城下も繁栄を謳歌した。光長自身が名君であったことと、重臣に人を得た結果であった。
しかし重臣の対立と光長の世継問題が絡んで御家騒動(越後騒動)となり、光長は改易されてしまう。

松平光長改易後4年間の天領時代を経て、稲葉正通(10万3千石、在封16年)、戸田忠真(6万7千石、9年)、久松松平氏五代(11万3千石、31年)と譜代大名が治めたのち、寛保2年に姫路から榊原政永が15万石で入り幕末まで六代続く。
榊原氏の入封も左遷であった。榊原家は初代康政が徳川四天王といわれ、家康の天下取りに貢献した武の家柄であったが、八代政岑が寛保元年(1741年)には江戸吉原の三浦屋高尾を2千5百両で落籍したことが将軍吉宗の逆鱗に触れて隠居させられた。
改易となってもおかしくないが、康政の功績を持って九代政永に家督を許されたうえ、姫路から高田に転封させられた。そんな状態であるから榊原家は最初から財政窮乏状態であった。
高田は姫路に比べれば同じ15万石でも実収が全く違った。姫路では実収20万7千石であったものが、高田では15万2千石、さらに封地も頸城郡に6万石と陸奥国内に9万石に分かれていた。
榊原家の時代は明治維新まで財政難との戦いの連続であった。榊原家は幕軍先鋒の家柄であり、幕末の長州征伐で伝統に基づき井伊家とともに先鋒となるが敗北続きで、そこにはもはや武の家の面影は微塵もなかった。

広大な平城であった高田城は、関川の流れを変えて外堀とし、石垣は使わずに全て土塁によって築かれている。これは高田城の大きな特徴の一つで、近世城郭であるのに石垣が築かれなかったのは石の入手難と工期の短縮が大きな理由と考えられる。
平成14年3月に内堀に架かる極楽橋が復元された。この橋の南側が二の丸であり、今でも満々と水を湛えた堀を渡るとかつては極楽門があり、それをくぐると枡形に入りその右手が大手門であった。
大手門を入ると北側に本丸があったが、現在は上越教育大学付属中学校である。本丸の南西隅に大櫓がおかれ、天守のなかった高田城の天守の代わりであった。
大櫓は築城当初は二重であったが、寛文5年(1665年)に地震で倒壊し、三重の櫓として再建された。その後、宝暦元年(1751年)の地震や享和2年(1802年)の大火でも被害を受けて、そのたびごとに復興される。
明治3年(1870年)にも焼失し、そのままになっていたが平成5年に上越市制20周年記念事業として復興された。
本丸の外に内堀を隔てて二の丸が、またその外側に三の丸がある。三の丸は二つに分かれ本丸から見て北東側を狐丸、南西側を陽戦曲輪という。二の丸南側と東側、三の丸の陽戦曲輪が高田公園となっている。
(平成20年8月訪問 #4)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、高田城パンフレット、関連ホームページ

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