歴史の勉強

三河国  田原城

    

袖池と三の丸土塀

桜門

二の丸櫓

渥美半島の城下町田原に城が築かれたのは、文明12年(1480年)ごろとされる。このころ知多、渥美両半島には三河国碧海郡上野村の地頭から出た戸田氏が勢力を伸ばしており、戸田氏の祖とされる宗光が拠点として田原に城を築いた。
三河国は戸田、松平、牧野の三氏の勢力が拮抗する状態であったが、守護大名から戦国大名への転換に成功した駿河の今川氏が三河にまで勢力圏を広げてきた。
宗光は明応8年(1499年)、船形山の戦いで今川軍に敗れて戦死し、跡を憲光が継いだ。憲光はこの頃、急激に強大化してきた松平氏に与するなど、戸田氏の勢力維持につとめた。
結局今川氏の勢力の前に松平氏も戸田氏も伏せざるを得なくなった。その後戸田氏は政光-康光と続いたが、康光は織田氏に付いて今川氏から離れ、今川軍に追討されて、天文16年(1547年)9月に田原城で戦死した。なお戸田氏は康光の二男宣光が分家しており、家名自体は存続する。

一方田原城は今川氏の支配下となり城代が置かれた。文禄3年(1560年)にいわゆる桶狭間合戦で今川義元が戦死し、この付近の情勢は一変した。三河の地は今川から独立した松平氏の拠点となった。
田原城は松平勢に攻略され今川の城代朝比奈元智は敗走し、城には本多広孝が入った。天正18年(1590年)の家康の関東移封に伴い、田原一帯は吉田城の池田輝政の支配下に置かれ、伊木清兵衛が城代となった。
池田輝政は伊木氏に命じて田原城に大規模な修築工事を行った。石垣や堀の造成、土塁の新設などで、この池田時代に近世城郭への脱皮がなされ、今見る形が整ったとされる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役により、田原の城には戸田尊次が1万石で入った。尊次は今川に討たれた戸田康光の弟忠政を祖とする家である。忠政の死去後は忠能-忠昌と継いで寛文4年(1664年)に肥後富岡に移封される。代って三河挙母から三宅康勝が1万2千石で入封し、明治まで約200年に渡って支配した。

小丘陵に位置する田原城は本丸を中心にして、その北に藤田曲輪、南に二の丸と三の丸を配した連郭式の城である。本丸の東西北は水堀が囲み、南側の二の丸との間は谷地形の広大な空堀であった。
現在本丸跡には巴江神社があり、二の丸には渡辺華山博物館が建つ。本丸と二の丸の間には堀切が残り、土橋で結ばれている。二の丸建つ華山博物館は、洋学者であり画家でもあった田原藩士渡辺華山を記念するものである。
華山は幕府海防掛にまで登用され、全国に名を知られたが、蛮社の獄によって失脚し後に自刃した。現在も田原の誇りとなっている。

二の丸には昭和33年に模擬二重櫓が復興されている。天守があげられなかった田原城では、この二重櫓が天守代用で、二の丸の南東隅にあった。櫓内には田原城模型が置かれていて、それによればこの櫓は下見板張りであった。
二の丸櫓の脇に城の追手門である桜門がある。この門は平成6年に復興されたが、土塀の海鼠壁に特徴を見る。古写真によっても海鼠壁であったことは間違いなく、太平洋岸の温暖な地に海鼠壁が用いられのは珍しい。
桜門の左手には析池(ひょうしぎいけ)、右手には袖池(そでいけ)が整備され、石垣上には土塀も復元されている。また桜門の南側には土塁の一部も残っている。
(平成26年12月訪問 #116)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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