歴史の勉強

琉球  首里城

    

1.歓会門

2.漏刻門

3.奉神門

4.正殿

5.御差床

6.御嶽石門

7.龍潭から望む首里城

8.玉陵

沖縄では14世紀になって中山王による統一がなされ、それまでの三山時代に終止符が打たれた。三山とは北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(大里城)という三勢力のことだが、中山王巴志によって1429年に琉球王国が誕生した。
王国を建てた巴志は都を浦添から首里に移し、1430年に明の宣徳帝から冊封を受け、琉球国王と認められた。なおこのときに尚の名乗りを許されたとあるが、巴志はそれより前に尚を名乗っている。
巴志の築いた首里城は、現在の首里城とは違ったタイプの城だったらしいといわれているが、よくはわかったいない。1469年に六代の泰久王の重臣金丸のクーデターにより尚円王が即位する。
尚円王の新王朝を第二尚氏といい、それまでの第一尚氏と区別するのが一般的だが、この第二尚氏が410年間19代にわたって沖縄を支配する。
尚円王と次の尚真王が明から冊封使を迎えるために整備築城されたのが、現在の首里城といわれる。特に正殿前広場は冊封使節を迎えての式典のために整備されたようだ。

沖縄の城は、グスクまたはグシクと呼ばれ、軍事施設とともに信仰施設でもあった。祖霊神ニライカナイは海の彼方から来るいわれ、祖霊信仰と結びつき、丘の上から海を望む聖地でもあった。
この祖霊が宿る場所が御嶽であり、そこは巨岩や石が集積した神聖な空間であった。御嶽への門は拱門といわれるアーチ型のものであり、現在の首里城にも御嶽への石門が現存する。
三山時代の前の沖縄はグスク時代といわれ、グスクが300以上もあったとされる。狭い島に群雄が割拠していたのである。それが三山~琉球王国による統一の時代となった。
統一政府の首府であった首里城も、それまでのグスク時代の信仰施設としての特徴を持ち、さらに日本と中国の影響を受けた独特の形式を持つ城として築城された。

首里城には本土の城のように天守や櫓などは一切ない。石垣は珊瑚礁などから切り出した石灰岩を積み上げた石塁である。
城は内郭と外郭に分かれ、内郭には正殿をはじめとする中枢部が置かれ、御庭を中心とする行政区画、京の内の祭祀区画、東側の居住区画で構成されている。
この内郭の外側に緩衝地帯を設け、それらを包み込むように外郭がある。外郭には歓会門(写真1)、久慶門、継世門、木曳門が設けられているが、いずれも城壁に開いたアーチ式の拱門である。
首里城は中国皇帝のいる西を正面としており、歓会門が正門となる。歓会門を入るとそこは緩衝地帯で、その先に内郭への瑞泉門がある。

内郭への門は瑞泉門のほか漏刻門(写真2)、右掖門、美福門、淑順門があるが、外郭の門に対して本土の櫓門と同様の形式となる。
瑞泉門から漏刻門を抜けるとその先には、入母屋の三棟を連ねた広福門を入り下之御庭(しちゃぬうなー)、さらに奉神門(写真3)を入りと御庭(うなー)となる。
復元された広福門西側は寺社座といい神社や寺のことを扱い、東側は大与座(おおくみざ)といい戸籍を扱ったようだ。現在広福門には券売所があり、ここから先は有料となる。
また奉神門北側は納殿(なでん)、南側は君誇(きみほこり)と呼ばれる祭祀用の部屋があったとされる。

奉神門を入ると正面に正殿(写真4)、南側には二階建ての南殿と平屋建ての番所、北側には北殿が建ち、奉神門と合わせて囲まれた場所が御庭である。
南殿は日本との儀式が行われた場所で、薩摩役人もここで接待された。北殿は役所の機能のほか、冊封式典の際には冊封使がここから御庭で行われる芸能を鑑賞した。
そして正殿は国王が諸儀式を行う城内最重要の建物である。正殿は王国で最大の木造建築物であり、三階建てで唐破風があるところは日本風であり、正面の階段がハの字型のところは中国風だ。

正殿内部には御差床(うさすか)という玉座(写真5)があるが、柱の彩色や一対の金龍柱、正面上部の額木などの装飾はいかにも中国風である。
このほか京の内には物見台、歓会門にいたる大道には有名な守礼門があるが、見学日には守礼門は工事中であり幕に覆われて見れなかった。
守礼門から歓会門に至る綾門大道(あやじょううふみち)には園比屋御嶽(そのひゃんうたき)石門(写真6)という破風や軒まで石造の貴重な遺構が残る。

首里城は東西に細長い丘に築かれ、丘の北側には龍潭(写真7)と円鑑池が守り、南側は安里川が防御する。守りの弱い東西にはアザナとよばれる城壁が築かれた。
西のアザナと下之御庭に囲まれた地域が京の内という祭祀区画であった。一方、東のアザナと御庭の間が居住区画で御殿も建てられていた。
さらに綾門大道を下ったところには玉陵(たまうどぅん)という第二尚氏の陵墓(写真8)がある。本土の陵墓とは全く違うので、一見の価値がある。

さて琉球王国は1609年に薩摩島津氏の侵略を受けて、薩摩藩の植民地となった。間接的に徳川幕藩体制に組み込まれた。一方で中国との冊封・朝貢関係も継続された。
したがって長らく中国の属国であり、島津の植民地でもあり、島内では封建体制を敷くという複雑な形が長く続いた。その間、首里城は1660年、1709年と2度焼失し、いずれも再建されている。
江戸幕府が倒れ明治を迎えた1879年(明治12年)に、明治政府は軍隊を派遣して首里城の明け渡しを要求し、国王は城を出て琉球王国は崩壊、正式に日本領となり沖縄県が設置された。
ここに首里城もその役割を終え、跡地は学校として利用されたが、第二次世界大戦の戦闘で全て破壊されてしまう。米軍占領下では琉球大学のキャンパスが置かれたが、本土復帰後に大学は移転し、首里城の復元化が現在も進められている。 (平成24年12月訪問 #113)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、城を歩く・首里城(PHP研究所)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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