歴史の勉強

陸奥国  相馬中村城

    

市街地にある外堀

大手一の門

東二の丸の枡形

本丸跡にある相馬神社

相馬氏の祖は小次郎師常であり、下総国の相馬御厨を譲られて相馬次郎と名乗った。師常は源頼朝の奥州征伐に従って功を挙げ、恩賞として奥州行方郡を与えられる。
六代重胤のときに下総から奥州行方郡に移り、相馬氏の奥州での歴史が始まった。重胤は行方郡太田の別所館に居住したあと、建武3年(1336年)に小高城を築いて移った。
小高城は約300年間にわたって相馬氏の本拠となったが、慶長16年(1611年)12月に相馬氏十七代相馬利胤は宇多郡中村城に本拠を移し、江戸期を通じてここが相馬藩の城下となった。

現在、城址一帯は馬陵公園になっており、相馬市街のど真ん中に位置する。近くには市役所や市民会館、裁判所などがある。
公園の北側、一区画ほど離れた市街地の中に外堀が残っている。外堀から少し南に行くと公園で、堀を挟んで野球場が見えるが、この野球場が東二の丸の跡である。
野球場を右手に見ながら堀に沿って進み左に曲がって国道115号に出ると、右側で国道が左にクランクするが、そこに大手一の門が現存する。
この門は慶安2年(1649年)の完成で、十六代義胤が川越城の城門を模して造られたと伝えられる。その先に大手二の門跡、さらに中の門跡があって土塁や石垣が残っている。

中の門から正面にまっすぐ行けば大手口で赤い木橋が見える。右手に大きく廻って野球場の脇から東二の丸に入ると、枡形の遺構がはっきりわかる形で残り、馬出しを経由して木橋を渡ると本丸跡になる。
馬出しのところに相馬氏とは切っても切れない二宮尊徳像がある。幕末近く、財政難に喘ぐ相馬藩は尊徳に相馬藩復興を依頼して、二宮仕法が藩内に実施され大きな成果を挙げた。この二宮仕法は明治維新まで続けられそれを顕彰するものである。
本丸には慶長16年の築城時、西南隅に三層の天守が建てられたというが寛文10年(1670年)に落雷で焼失し、以後再建されなかったというが、天守台跡はわからない。本丸には相馬神社があり、相馬氏の祖師常を祭神として明治13年(1880年)に建立された。

一方、中の門から左手に向うと相馬氏の守護神である妙見神を祀る中村神社がある。中の門から中村神社までの南側に広がる芝生の広場が南二の丸の跡である。
中村神社本殿は、台地の上にあり長い階段を上る。神社の東側が搦手門跡で、その先は橋を渡り枡形を通って本丸に至る。
このほか中村神社の北側、本丸の西側に西二の丸があり、本丸の北側には北二の丸がある。北二の丸の北には蓮池を隔て、さらに北三の丸がある。
相馬中村城は市街中心部にある城址としては、遺構がよく残っている城址である。
(平成20年9月訪問 #9)

参考文献:下総・奥州相馬一族(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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