歴史の勉強

陸奥国  白河小峰城

復元された三重御櫓

    

1.清水門

2.竹の丸南側石垣

3.三重御櫓と前御門

4.桜門

5.西側から見た本丸

6.搦手の尾廻門

奥州への関門の地である白河に城が築かれたのは、鎌倉時代のことという。文治5年(1189年)に下総の豪族結城朝光が源頼朝から白河荘地頭職を与えられ、その孫祐広は正応2年(1289年)ごろに白河に下った。
祐広は白川城を築き、その庶流の親朝は興国元年(1340年)に小峰ヶ岡に城を築き、小峰氏を称した。やがて小峰氏は白川結城氏と対立し、戦国期に小峰氏に滅ぼされてしまう。 白川城は廃城になり、一方小峰氏が築いた城は白河小峰城と呼ばれるようになる。一説によると小峰氏は白川氏を称したともいわれるが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により改易となった。

白河の地は秀吉時代は会津領となり、蒲生氏や上杉氏の支配を受けたが、江戸期になり寛永4年(1627年)に丹羽長重が棚倉より10万石を与えられて入封し、白河藩を立藩した。
長重は織田信長の重臣だった丹羽長秀の子で、関ヶ原では西軍に与し所領を没収されたが、でひたすら恭順の意を示し、将軍秀忠の取り成しもあって許され、慶長8年(1603年)11月に常陸古渡に1万石を与えら大名として復活した。
その後棚倉5万石を経て白河藩主となった長重に、幕府は城の築城を命じた。計画に1年半を費やして、寛永6年(1629年)に城普請が始まった。

長重は棚倉でも幕命で城を築いており、これらは丹羽氏の財力を減じさせるのが目的であった。長重にとっては幕府の意図はわかっていても、全力を挙げて築城に励み、二心なきを示さねばならなかった。
長重は10万石に相応しい近世城郭の築城を目指し、阿武隈川の流路を変えて外堀とし、その南の標高370mの小峰ヶ岡に本丸を置き、それを取り巻くように帯曲輪を配した。
本丸の北から西、南に水堀を設け、南側に二の丸、さらにその南から東にかけて三の丸を鉤の手に設けた。三の丸の外郭には侍屋敷が設けられた。

現在のJR白河駅付近が三の丸門で、二の丸跡を経て清水門(写真1)に達する。現在、白河小峰城は駅から地下道を出ると城址となっている駅前の城である。
清水門は二の丸から本丸への門で、門跡の周囲には水堀(写真2)が残る。石垣は本丸側が高石垣となっていて、往時はその上に土塀が巡らされていた。白河小峰城は東北の城には珍しい石垣の城なのである。
清水門から桜門(写真3)を経て本丸御殿跡になる。桜門も石垣がふんだんに使われた複雑な虎口になっている。一方清水門の右手に広がるのが竹の丸で、ここから本丸への門が前御門でその北東に三重御櫓(写真4)がある。

三重御櫓は、元和の一国一城令後に建てられたために櫓と称したが、高さは約14mあり天守代用であった。この城の建物は戊辰戦争の際に白河藩が奥羽列藩同盟に加わったこともあり、落城の際に全て焼失してしまった。
その後、昭和62年に白河市制40周年記念事業として三重御櫓の復元が計画され、平成3年に櫓が、平成6年に前御門が木造で復元された。なお、この木造復元がその後各地の復元ブームの呼び水となったといわれるている。
また搦手門である尾廻門(写真6)から堀に沿って歩くと、一二三段に組み上げられた石垣(写真5)の様子がよくわかりるほか、帯曲輪にはバラ園があり、また城址は桜の名所にもなっている。

白河小峰城には本丸北東隅にあるシンボルの三重御櫓のほかに、本丸北西に雪見二重櫓、同じく南西に富士見二重櫓、中門に月見二重櫓、竹の丸南東に竹の丸二重櫓、帯曲輪北東の矢の門に矢の門二重櫓の6基が建てられた。
城を築いた丹羽長重が死去した跡を光重が継いだが寛永20年(1643年)に二本松に転封となる。丹羽氏はその後二本松で準国持大名として定着した。
丹羽氏の跡には榊原氏一代、本多氏二代、松平(奥平)氏一代、松平(越前)氏三代、松平(久松)氏四代と継がれ文政5年(1822年)に阿部氏が入った。

慶応3年(1867年)に藩主阿部正静は先代正外の兵庫開港問題による失脚を受けて棚倉に移され、白河は幕僚となり二本松丹羽氏の預り地となったが、戊辰戦争で落城してしまう。
平成23年3月11日の東日本大震災により、城は大きな被害を受けた。特に石垣は数か所で崩壊し、曲輪やバラ園などにも被害があったという。
震災後、本丸域への立入は禁止され、修復工事が行われているが、復旧には5年程度を要するといわれている。
(平成21年7月訪問 #105)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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