歴史の勉強

甲斐国  新府城


源氏の名門甲斐武田氏は、戦国の名称のひとり武田信玄により最盛期を迎えたが、信玄が上洛戦の途次の元亀4年(1573年)に信濃駒場で病死したのを機に、その勢力は下降線をたどり始めた。
信玄の跡を襲ったのは庶子である四男勝頼であった。勝頼は武田家を滅亡に導いたことから、とかく評価が悪く、曰くひたすら武功を求めて慎重さを欠き、旧臣の言を聞かず佞臣を重用したとされている。
しかし実際は武勇に優れた勇将であったともいわれているあまりにも偉大な信玄に比較され、可愛そうな面もあるが、決して暗愚な将ではなかったようだ。

勝頼は信玄の死後、その遺言や重臣の声を聞かず、積極的な行動に出たのは事実であった。信玄に対するコンプレックスもあったのだろう。信玄の死後1年余りの天正2年(1574年)6月には遠江に侵入し、信玄も陥せなかった堅城高天神城を陥落させた。
勢いに乗る勝頼は遠州各地を蹂躙し、翌天正3年には東三河に侵攻し5月には長篠城を攻撃した。これから有名な長篠の戦いが惹起する。この戦いに大敗した勝頼は、急速に衰えて行く。
それまで攻撃を最大の防御としてきた武田氏は、本国甲斐国内に本格的な城郭を持たなかった。躑躅ヶ崎館はあくまで政庁であり、詰城の要害山城を合わせても籠城どころか敵を防げるような堅固な城ではなかった。

そこで、七里岩とよばれる釜無川の断崖上の地に新城を築くことにした。これが新府城である。それまでの府中を古府中と称し、新しい府中の意である。
城は真田昌幸の縄張りで突貫工事で築かれ、天正9年(1581年)の末に、未完成の状態で勝頼が入城した。しかし翌天正10年、織田・徳川連合軍は怒涛のように甲斐に侵入してきた。
木曽義昌や穴山信君らに裏切られた勝頼は戦意を失い、新府城を出て岩殿城の小山田信茂を頼った。しかし信茂にも裏切られて天目山で自害し、名門武田氏は滅びるのである。
結局勝頼が甲斐を守るために遅まきながら築いた新府城は、未完成のままに終わり、武田氏滅亡後は信長や家康が一時的に陣しただけで、実戦には一度も使用されることなく破却された。


東出構

西堀

搦手虎口

虎口から二の丸を見る

新府城へは鉄道ならばJR中央線新府駅から、車なら中央道韮崎ICで降りて県道17号線を走ると、大手口の少し先に駐車場がある。駐車場から県道を渡ると半島のように突き出た東出構がある。
横矢攻撃のためのもので、そのまま進んでいくと対になった西出構がある。この付近は湿地帯で、搦手口付近には水堀が残り、その先から城内に入る。坂を上りきると右側が七里岩の絶壁で、すぐに搦手虎口跡となる。
搦手虎口は枡形の跡がはっきりわかり、その先で土橋を渡ると右側に大井戸跡がある。さらに進むと二の丸跡で、二の丸を横切るように進み、土塁が残る虎口から左に進むと本丸となる。
    

本丸内勝頼霊社

大手門跡

首洗い池

本丸は二の丸のすぐ東側の一段高い位置にある。したがって本丸を見通すことはできず、さらに植込みや塀を構えて視覚を絶った。これを蔀の構と称する。
本丸内には藤武神社があるほか、説明板があり長篠合戦図も建てられている。さらに本丸北西には勝頼霊社として勝頼の御霊を祀る石祠が建立され、そのれを守るように武田十四将の霊位が並んでいる。
本丸を出て南側に進むと三の丸となる。三の丸はその敷地を土塁で区切って東西に分かれている。そして、その南側に大手門跡がある。

大手門跡で方向を180度変えて進むと、枡形と巨大な丸馬出があり、その先には三日月堀があった。三日月堀の底から見ると馬出はかなりの高さで、防御力の高さがよくわかる。
この先で県道に出て少し戻り、右側に入って行くと城の東側にあたる場所に首洗い池の跡がある。由来は不明だそうだが、堀の役目をはたしていたのだろう。
こうして見ると西側が七里岩の絶壁、北側から東側にかけてが堀や湿地帯、南側に開いた大手は巨大な馬出で防御していたのがわかる。残念ながら城としての役割は果たせず、悲劇の城といえるだろう。
(平成26年12月訪問 #94)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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