歴史の勉強

伊豆国  下田城

    

堀切、わかりにくいが畝が確認できる

伝天守台下、階段を上ったところが伝天守台

お茶が崎から大浦海中公園を望む

鵜島ともよばれる下田湾に突き出た半島部全体が城跡で、最高所でも標高70mほどである。そのために鵜島城ともいわれることがある。戦国期に伊豆の支配者であった後北条水軍の城であった。
地勢的にみて海賊の根拠地であったのは間違いなく、後北条氏が支配するに及んで組織化された防御拠点としての城となった。
後北条氏は玉縄衆の朝比奈孫大夫を置いたが、豊臣秀吉との関係が悪化してくると天正16年(1588年)に伊豆衆の清水康英を城主にした。
清水氏は賀茂郡加納矢崎城を本拠地とする早雲時代からの家臣で、三島神社奉行や評定衆などを勤めていた。

康英は伊豆南部を管轄する伊豆奥郡代であったが、秀吉との合戦を避け得ないと考えた北条氏直により下田城の大改修を命じられ城主に任じられたのだった。
康英は援軍を含めて600名の兵を持って備えた。もっとも康英は海賊の出身ではなかったから、水軍や海戦の経験もなく、ために吉良氏の海賊衆であった江戸朝忠が援軍として参加したようだ。
一方、対する豊臣水軍は九鬼氏をはじめ脇坂、毛利、長宗我部などのちに文禄・慶長の役で日本水軍の中核をなす名だたる部隊である。
瀬戸内海や伊勢湾などで代々海賊として生きてきた、経験豊富な水軍だ。その数は1万4千。はっきりいって戦う前から結果は明らかだった。

天正18年(1590年)4月1日、すでに西伊豆を制圧した豊臣水軍は、その姿を下田沖に現し、山下の出丸や城下に火を放ったり、一部は上陸して攻撃したりした。
さらに大船団で海上を封鎖し、下田城を孤立させる。そして封鎖開始から23日目の天正18年4月23日、康英は城を開いて河津の林際寺に退去した。ここに下田城は落城した。
後北条氏滅亡後、徳川家康が伊豆国の新領主となった。下田は戸田忠次に与えられた(5千石)が、関ヶ原役後の慶長6年(1601年)に戸田氏は三河田原に転封され、その後は直轄地となり下田奉行がおかれ、下田城は廃城となった。

現在の下田城は全体が下田公園と呼ばれ、駐車場や遊歩道が整備されている。駐車場は南北にあり、どうちらからも坂をだらだらと昇って行くことになる。
馬見ヶ崎やお茶ヶ崎など思わせぶりな名前の展望台があるが、おそらく物見を兼ねた曲輪であろう。
城域全体は尾根が入り組むような地形であり、海からいきなり立ち上がるから急峻な場所もあって、その地形を最大限利用して造られていたようだ。
半島の付け根となる陸側は、防御のために大堀切があり、各尾根を遮断して削平して曲輪とし、曲輪間の堀切が大堀切につながっている。大堀切や伝天守台南側の空堀は後北条氏独特の畝堀で、痕跡が残る。

曲輪間は土橋で結ばれており、最高所が伝天守台といわれている。天守があったかどうか、わからないというより、おそらくは無かったろう。
下田一帯の最高所程度の意味で名付けられたものかもしれない。この伝天守台も面積は狭く、西側に堀切があってその先の曲輪からは海が望める。
基本的には城というよりは大規模な砦といった方がよく、あくまで戦時の城である。なお、下田には模擬天守があるが、これは下田城美術館という施設で、下田城とはまったく関係がない。
(平成25年9月訪問 #91)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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