歴史の勉強

越後国  新発田城

復元された御三階櫓

    

旧二の丸隅櫓

本丸表門

本丸表門内部

復元された辰巳櫓

平成16年(2004年)7月、新発田城の御三階櫓と辰巳櫓が復元された。
新発田城の跡地は大部分が埋め立てられて自衛隊駐屯地となっていて、本丸の一部と南側の堀の部分が残されているだけであった。
そこに国の重要文化財である本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存していたが、市民による本丸建造物の復元運動が平成13年ごろから本格的に開始され、3年余りを費やして復元がなったものである。
御三階櫓は天守のなかった新発田城で最大の櫓で天守の代用であり、城の象徴であった。最大の特徴はTの字の形をした屋根と三匹の鯱である。(トップの写真で尾の先が辛うじて見えるのが三番目の鯱です)
なぜ屋根をTの字に配したのかはわかっていないが、全国でこの形は新発田城だけである。この御三階櫓は自衛隊の敷地内にあるために立入りは出来ず、堀越しに眺めるられるだけである。

本丸表門は櫓門形式であり、石垣より後退して建てられ、横矢がかけられるようになっている。屋根の内部も公開され、石落が作られている。この本丸表門への橋は土橋であるが、かつては木橋であったという。
本丸表門の北側には辰巳櫓が復元されている。展示物はほとんどなく、急な階段が目に付くばかり。床の一部はガラス張りで、そこを通して礎石を見ることができるように工夫されている。
旧二の丸隅櫓は二の丸の北西隅櫓(乾櫓)を本丸の鉄砲櫓台に移築したもので、破風はなく一重目には海鼠壁がめぐらされている。この旧二の丸隅櫓も内部公開されている。

新発田は佐々木一族であった新発田重家の本拠であったところで、重家は上杉謙信没後の家督争いである御館の乱での恩賞問題で上杉景勝に反抗し、7年の間景勝に敵対した。
天正15年(1587年)に重家は景勝に滅ぼされ、新発田の地も名実ともに上杉領となる。しかし慶長3年(1598年)に景勝は越後から会津に転封となり、越後には堀秀治が入った。
このとき新発田の地には堀氏の与力大名であった溝口秀勝が6万石(二代宣勝のとき弟善勝に1万を分知し5万石となる)を与えられ、加賀大聖寺より移ってきた。堀氏は関ヶ原後に一族の対立から改易となるが、溝口氏は明治維新まで十二代に渡り新発田を領有する。
秀勝は新発田に入ると城下の整備に着手した。整備は長井清左衛門によって行われ、外濠に新発田川の水を取り入れ、新発田川から加治川を経て日本海と連絡できるようにした。
城の大手は城下を通る出羽街道に面し、城下の東側に町人地を設けた。新発田城の普請の完了は承応3年(1654年)というから、藩主は三代宣直のころ、普請完了までに約50年を要している。

しかし、その新発田城も完成後14年の寛文8年(1668年)4月の大火で焼失、さらに翌寛文9年には大地震があり、石垣普請からやり直さなければならなくなるほどの被害を受ける。
新発田城は寛文10年から、約30年間かけて復旧工事が行われ、その後幾多の補修を経て明治維新を迎えている。
なお、新発田城が復旧なった元禄14年(1701年)には城下の町屋が453軒、家臣団は録米制でほとんどが城下居住で武家屋敷は801軒であった。
だが六代直治の代の享保4年(1719年)4月には城下新発田が大火に見舞われ城中も大半が焼失した。このときも再建工事が実施されるが、城内の建物が瓦葺となったのはこの時といわれている。
このころから新発田藩の財政は急激に悪化していき、以後は財政難との戦いとなって明治維新に至る。なお、新田開発により幕末近い万延元年(1860年)には表高を5万石から10万石に高直しされた。
(平成20年8月訪問 #5)


清水園

新発田藩足軽長屋

新発田城から車で5分、徒歩で15分ほどのところに清水園がある。三代藩主宣直が寛文6年(1666年)に造営をはじめた下屋敷は、その後四代藩主重雄の代に工事が引き継がれ、造営地の地名清水谷から「清水谷御殿」として完成を見た。
庭園は江戸から幕府の茶道方であった縣宗知(あがたそうち)を招聘して、造園したとされ近江八景を取り入れた京風の庭園となっている。
園内には寄棟造杮葺平屋建の御殿が現存している。御殿というには簡素であるが、これは幕府に対する政治的な配慮であるとされる。
清水園の隣には藩の足軽長屋であった八軒長屋があり、天保13年(1842年)に建てられたものとされている。補修はされているものの貴重な遺構であり、新発田城とともに一見の価値がある。

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、新発田城・清水園パンフレット、関連ホームページ

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