歴史の勉強

陸奥国  仙台城

本丸の伊達政宗像


仙台城は、青葉城の雅称の方が有名な伊達氏の城である。仙台駅の西方、広瀬川にせり出した青葉山一帯の丘陵部に城が築かれている。青葉山にあるから青葉城なのか、青葉城があるから青葉山なのかははっきりしない。
最初は千体城、のちに千代城といい鎌倉時代末期から城があったという。伊達氏が入る前には国分氏が城主であったが、伊達政宗の叔父である国分盛重は政宗と対立して慶長元年(1596年)に出奔し、常陸の佐竹氏の下に走った。
これにより千代城は廃城となったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の役後に政宗は家康の許しを得て、この地に築城を決意した。
藤原北家山陰流といわれる伊達氏の姓は陸奥国伊達郡、現在の福島県中通り北部に由来する。鎌倉時代初期に源頼朝の奥州合戦に参陣して、恩賞として伊達郡を与えられたというから、出来星大名が多い江戸時代においてはたいへんな名家である。

長らく伊達郡を本拠にしていたが、十五代晴宗のときに出羽国米沢に本拠を移し、十七代政宗は宿敵蘆名氏を滅ぼして会津黒川城に本拠を移した。
しかし会津の蘆名攻めが惣無事令に違反したとして奥州仕置で取り上げられて米沢に戻り、さらに葛西・大崎一揆の黒幕疑惑で米沢も追われて岩出山城に移った。
岩出山在城は12年に及んだが、千代の地が領内の要衝であり、青葉山が天険であることに目をつけたのだった。青葉山の南側は竜ノ口渓谷といわれる断崖絶壁で人を寄せ付けず、東側は広瀬川に面した高さ70mほどの断崖、西側は険しい山稜でここには堀切や土塁で守った。
唯一北側から尾根伝いに辿って丘陵部の本丸への道がつくが、ここには石垣を築いた。政宗は慶長8年(1603年)に岩出山から移ったが、城の完成までには10年の歳月がかかった。
慶長15年(1610年)に完成をみると政宗は、中国の「三体詩」からとった仙台の名に改めた。仙台は政宗が名付け、政宗が開いた街なのである。


太鼓土塀と石垣

大手門隅櫓

仙台城の大手門は今の城址入口の信号のところで、市街方面から来て左手に隅櫓が復元されている。その脇の二の丸の正面に大手門があった。
隅櫓と道路を挟んで反対側、つまり大手門の北側に太鼓土塀と石垣がある。この土塀、隅櫓、大手門は昭和20年(1945年)まで現存していたが、米軍機の空襲により全て焼失し、石垣だけが残った。
その後、隅櫓と土塀は昭和42年(1967年)に復元されたが、大手門や隅櫓は写真が残っていて、書籍などで見ることができる。
写真によると大手門は桃山様式の堂々たるもので、豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城の大手門を移築したとの説と寛永年間に二代忠宗が造営したとの説があるが、いずれにせよ焼失が惜しまれる。現在は大手門のところが交差点の真ん中で、ここで左折して中の門を経て本丸へと向う。

  

本丸北面石垣

本丸北面石垣モデル

築城期石垣モデル

やがて正面に見事な高石垣が見える。道路はヘアピン状に石垣手前を曲るが、その正面には艮櫓があった。艮櫓は三重の櫓で、天守が建造されなかった仙台城では最も高い建造物であったと推定されている。
いわゆる天守代替の櫓であったが、正保3年(1646年)の地震で倒壊し、その後は再建されなかったという。さらに石垣は寛文8年(1668年)の地震で崩壊してしまい、櫓の痕跡すら確認できなくなった。
現在の石垣の石を見ると明るさに違いがあるが、明るい部分は平成9年から16年にかけて石垣修復工事が行われたときに交換補強された石垣である。
このときの発掘調査で石垣内部から埋没していた2つの時期の石垣が見つかった。第Ⅰ期の石垣は野面積みのもので築城期、つまり政宗が築いたときのもの、第Ⅱ期は元和2年(1616年)の地震で石垣が崩壊したあとにⅠ期の石垣を覆うように積まれたもの、そして第Ⅲ期のものが切石積みの現在のものである。
本丸内に第Ⅰ期の石垣と第Ⅲ期の石垣(平成の補修で再利用できなかったものを利用)のモデルが解説パネルとともに展示されている。

石垣に沿って進むと鳥居が現れる。この鳥居は本丸内の宮城県護国神社のものであるが、ここが当時の詰の門跡、本丸入口であった。
この詰の門の両脇には東西の脇櫓があった。詰の門跡を上っていくと本丸になる。現在は護国神社や青葉城資料展示館、土産物屋などが建ち、広場には有名な馬上の政宗像がある。
江戸期にはこの本丸内に書院や大広間があり、東側の広瀬川に面する崖には懸造があった。懸造とは斜面や水面に建物の一部を張り出して造る建て方で、京都の清水寺の舞台を想像すればいい。
この崖の部分は現在でも市街地が展望できるが、江戸時代にはここに城下を眺められる書院造の建物が造られていたのである。さらに本丸内には南東部に巽櫓、神社の裏には天守台があったが、天守は幕府を憚って上げられることはなかった。
ただし本丸が政庁として使われたのは政宗の代のみであったらしい。二代忠宗のころには二の丸(東北大学キャンパス)に政庁が移ったというが、懸造や大広間は明治まで残っていたという。


埋門跡

沢の門下の石垣

清水門跡

三の丸巽門跡

五色沼

さて、枡形土塁が残る城の搦手埋門から出て本丸を南から西に回りこんで詰の門跡に戻り、さらに進んで沢の門から右に入る。
沢の門跡の先には政宗時代(Ⅰ期またはⅡ期)のものとされる石垣が残る。沢の曲輪という帯曲輪の間にあったものである。さらに坂を下っていくと進むと清水門があった。この清水門が沢の曲輪と三の丸を隔てる門で、門の先には酒蔵跡が残る。清水門の名も酒造りに使う清水が湧き出たことに由来する。
三の丸への入口が巽門であり、礎石が残る。この門も昭和20年まで残っていたが、戦災で焼失した。三の丸は蔵屋敷曲輪とも呼ばれるが、政宗時代は政宗の屋敷が営まれていた。
忠宗時代に政庁が二の丸に移ってからは蔵屋敷が建ち、別名を東丸ともいわれた。ここには現在仙台市博物館が建っている。三の丸の北側の門が子の門であるが、三の丸は水堀に囲まれていた。
仙台城は広瀬川や竜ノ口渓谷など天然の要害に拠っていて、低位にあって防御に難がある三の丸の周囲にのみ水堀があった。現在も東側に長沼、西側に五色沼といわれる水堀が残る。
(平成21年9月訪問 #64)


瑞鳳殿

感仙殿

善応殿

寛永13年(1636年)5月、今日の仙台の基礎を築いた政宗は70歳で没したが、広瀬川を挟んで仙台城と向き合う経ヶ峯の地に埋葬するように遺言した。
二代藩主忠宗は霊屋として本殿、拝殿、唐門、御供所からなる瑞鳳殿を造営した。桃山様式の豪華絢爛な廟であった。
さらに忠宗の霊屋感仙殿、三代綱宗の霊屋善応殿も続いて造営され、昭和6年(1931年)に瑞鳳殿と感仙殿は国宝に指定されたが、戦災ですべて焼失した。
昭和54年(1979年)に瑞鳳殿が、昭和60年(1985年)に感仙殿と善応殿が再建され、域内には副葬品等を展示した資料館もある。

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・仙台城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、仙台城パンフレット、瑞鳳殿パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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