歴史の勉強

下総国  関宿城

    

復興天守

旧本丸から天守を望む

移築された薬医門

利根川と江戸川が分岐する千葉県野田市関宿の地には関宿城があった。現在の地図を見ても、要害の地であることは容易にわかるから、河川の改修がままならない頃は、大河を背景とした難攻の城であった。
その頃の城址も、明治以後の河川改修や宅地化、耕地化でほとんど消滅しているが、平成7年に大堤防沿いに模擬天守が復興(左写真)された。
江戸時代の関宿城には、御三階櫓が唯一の重層櫓として偉容を誇ったらしく、模擬天守は御三階櫓絵図を参考にして建てられたという。
その御三階櫓も寛文11年(1671年)に江戸城富士見櫓を模したものとされており、復興された白亜の天守も堂々としたものになっていて、内部は千葉県立関宿城博物館として公開されている。

関宿城は長禄元年(1457年)に古河公方足利成氏の重臣であった、梁田成助により築かれたとされ、古河の衛星城郭であった。古河公方足利義氏が居した時期もあったという。
永禄7年~8年(1564~5年)の第二次国府台合戦で里見氏ら房総諸豪に勝利した後北条氏は、下総から武蔵にかけて侵攻を開始し、その過程で関宿城も攻防の地となった。
関宿城を巡っては三度に渡る合戦が戦われ、天正2年(1574年)に梁田持助は北条氏照の攻撃に屈服し、城を開いて常陸の佐竹氏を頼って落ち、後北条氏の支城となった。

天正18年(1590年)に後北条氏は秀吉の前に滅び、その支配地であった関東は徳川氏の領有するところとなった。以降、関宿は川越城、忍城、岩槻城、佐倉城、古河城などとともに江戸城防衛の重要拠点となり、関宿藩が置かれ代々譜代大名が城主となり、老中や寺社奉行など幕閣入りする人物も多く出ている。
すなわち家康の異父弟久松松平康元にはじまり、その子忠良に継承された。その後は能見松平氏、小笠原氏二代、北条氏(後北条氏二代氏綱の娘婿となった福島氏を祖とし、のちに家康家臣となる)、牧野氏、板倉氏と頻繁に城主が変わり、板倉氏の後に久世氏が入り、一時期牧野氏が再封されるが再び久世氏が城主となって明治に至る。
このうち御三階櫓は牧野親成の代に築かれ、また板倉重宗は城地の背後を流れる逆川を利根川と江戸川を結ぶ運河にして舟運を軌道に乗せた。これによって関宿には川関所が置かれ、関宿藩が管理した。
現在の復興天守から大堤防に沿って歩くと旧本丸跡(中央写真)が堤防下にあり、さらに進むと関所跡の碑が建っている。また、埋門が市内個人宅に、薬医門(右写真)が茨城県猿島郡の逆井城址公園に移築されて現存している。
(平成21年5月訪問 #47)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、東京近郊の名城・古城(PHP研究所)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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