歴史の勉強

陸奥国  佐沼城

    

土塁

井戸

宮城県登米市迫町佐沼にある鹿ヶ城公園一帯が佐沼城址で、公園名にもなっている鹿ヶ城とは、城の鎮護のために鹿を埋めたことからくるこの城の別名だ。
地図を見れば一目瞭然だが、城の東を迫川が南北に流れ、北東部で迫川から荒川が分かれて城の北を流れる。北西から西側にかけては低湿地で、唯一南側の今の迫市街地がが広がる側が地続きになっている。
つまり南から川と湿地に突き出た半島状の丘陵部に築かれたのが佐沼城であるが、この丘陵部は標高で15m、比高で8mというからあまり高くない川と湿地に守られた要害であり、水城といってもいい。
したがって城の大手は南側にあり、そこから沼地の中を進み本丸の南側の曲輪を経て、東側に大きく迂回して大手門に至った。
本丸に行くにはこの一本道で、南側の曲輪には本丸から横矢が懸かる。大手門は東側にあり斜面をあがって東西100m、南北80mほどの本丸となる。本丸の周囲には土塁が巡らされ、周囲には内堀があったようだ。
現在堀はコンクリートで覆われてしまい、本丸内が公園として整備されている。そこに土塁や井戸が遺構として残っているだけである。

この城を築いたのは藤原秀郷の臣の照井太郎直高といわれ、文治年間(1185~89年)のことという。文明年間(1469~86年)には佐沼右衛門直信が居城した。
天文年間(1532~54年)には陸奥の名門であった大崎氏の家臣であった石川四郎右衛門直村が入り、石川氏が四代に渡って住した。
しかし大崎氏は秀吉の小田原征伐に参陣せずに、その領地を没収されてしまう。大崎氏の領地は秀吉の側近であった木村伊勢守吉清に与えられた。
その新所領は30万石といわれた。木村吉清は小身かつ小心な官僚に過ぎず、いきなりの大封に大慌てで家臣を整え検地を行った。

だが大慌てで整えた家臣は、足軽や中間を俄に侍に仕立てたり、浪人を手当たり次第に召抱えたりしたから質が悪く、領民に乱暴狼藉を繰り返し、たちまち一揆が起きた。これは葛西・大崎一揆と呼ばれる。
吉清と子の清久は寺池城を追われてこの佐沼城に追い詰められたが、秀吉の命を受けた伊達政宗、蒲生氏郷らによって救出された。
一揆は鎮圧されたが吉清は改易、一方政宗は父祖の地の米沢を取り上げられて、代わりにこの地方を与えられた。秀吉は葛西・大崎一揆の裏に政宗ありと疑っていたようだ。
その後、一揆は再び広がりかけたが政宗は徹底的に鎮圧した。江戸時代には佐沼は仙台藩の要害とされた。名は要害だが実際は城であった。
佐沼は重臣の津田氏が治めたが宝暦6年(1756年)に仙台藩主伊達重村の不興を買って改易され、高清水要害より亘理氏が入り明治に至った。
(平成22年9月訪問 #60)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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