歴史の勉強

下野国  佐野城

    

二の丸から三の丸を望む
左手通路が佐野駅

佐野城最大の遺構である
二の丸と本丸の間の堀切

佐野厄除大師に移築された
城門

秋の一日、館林城の後佐野城に廻る。佐野城は延暦元年(782年)に藤原藤成が春日明神を祀ったことに由来して、春日岡城ともいわれる。
館林から東武佐野線に乗って、まず佐野市駅で降りる。佐野駅の一つ手前の駅で、佐野駅より市の中心に近く10分ほど歩くと惣宗寺に着く。惣宗寺というより佐野厄除け大師の通称の方が圧倒的に有名な天台宗の寺院である。
惣宗寺は開基は藤原秀郷で、春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかやまてんぽうりんいんそうしゅうかんじ)というのが正式である。
これからも明らかなように、もともとは春日岡つまり佐野城址にあったもので、慶長7年(1602年)に佐野信吉が春日岡に佐野城を築くために現在地に移転した。

佐野城が廃城になるとその城門が惣宗寺に移築され現存している。城門前は駐車スペースでそのために山門全体の写真が撮れなかったが、装飾が施された華美な門である。
三つ葉葵の装飾もされているが、これも含めて装飾自体は後世に付け加えられたものであろう。
厄年ではないのでお参りは省略し、佐野駅まで15分ほど歩く。佐野駅は東武のほかにJR両毛線が入り、駅の南側から自由通路を抜けた北口が佐野城三の丸になる。駅からすぐというより駅前の城である。
唐沢山城主で3万9千石を領していた佐野信吉は、関ヶ原役後の慶長7年に幕府の命によって佐野城の築城を開始した。
佐野城は慶長12年(1607年)に完成して信吉は唐沢山城を廃して佐野城に移る。同時に新たな城下の町割も行われたが、そのわずか7年後の慶長19年(1614年)に信吉は改易されて城地を没収され、佐野城は廃城になってしまう。
信吉は伊予板島(宇和島)藩主富田信高の弟で、佐野家の養子となっていたが、信高が改易されたことに連座しての改易であった。

さて佐野城は南北に連なる丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から北に三の丸、二の丸、本丸、北出丸の順に直線で並ぶ。
三の丸は駅に直結して駅前広場のような感じで、児童遊具もある。道路を越えると二の丸入口で坂を上って二の丸に入る。
二の丸内も公園化され、一角には城山記念館もあって、発掘の模様などがパネルで紹介展示されている。二の丸と本丸の間には幅14mといわれる大堀切があって、この城の最大の遺構とされている。
堀切を跨ぐ橋上から見るとその大きさに圧倒される。本丸内は広場になっていて、その片隅に石が並べられている。ここからは石畳と石垣が発掘されたところで、調査後に保存のために埋め戻されていて、付近から出土した石を並べている。
ちなみに石畳は東西2.6m、南北5.6m、石垣は長さ6.4m、高さ1.4m、東斜面の井戸への通路の跡ではないかと思われるという。
本丸から堀切を挟んで北出丸があり、北出丸も現在は公園化されている。この間の堀切も二の丸との間の堀切ほどではないが、かなりの大きさのものである。
駅前の城であり(城前の駅というのが正しいが)、全部を見ても30分程度で、電車待ちの間に見れてしまう城である。
(平成20年11月訪問 #14)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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