歴史の勉強

下総国  逆井城

大手門脇二階櫓

    

井楼櫓

本丸主殿

一曲輪櫓門、木橋

鐘堀池

茨城県坂東市逆井、平成の市町村前の猿島郡猿島町逆井にある逆井城址公園は、できる限り中世城郭を再現しようとした公園で、櫓、土塀、橋などが発掘調査に基づいて復元されている。
しかも復元位置をずらして遺構の保存を行うなどの配慮はすばらしい考え方で、大いに評価すべき事業である。ありもしなかった所に変な模擬天守を建てて公園化するよりも金の使い方としては格段に優れている。
さて、この逆井城は下野国祇園城(小山城)主小山義政の五男常宗が享徳年間に築いたとされる。常宗は逆井氏を名乗ったが、その孫常繁のときに後北条氏によって滅ぼされた。
天正5年(1577年)北条氏繁は相模国藤沢から大鋸引ら職人をこの地に呼んで新たに築城し、佐竹氏や多賀谷氏、山川氏など対立する勢力への最前線基地とした。
翌天正6年に氏繁は逆井城で没し、子の氏舜と氏勝の兄弟が継いだが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされると廃城となった。

逆井氏が築いた城を逆井古城、北条氏繁が築いた城を飯沼城というが、その遺構が重なっている。現在の城址公園の駐車場のすぐ先には濠を挟んで井楼櫓や土塀、二重櫓が復元されているが、ここが西二の曲輪にあたる。いわゆる二の丸である。
二重櫓は二層三階の望楼型で、井楼櫓とともに模擬建築で、実際にあったどうかは不明だが、よく雰囲気を出している
二重櫓の脇に大手橋と大手門があるが、堀底からは橋脚の礎石が出土しているというから橋が架かっていたことは確かである。
濠は舟入も兼ねていて、船着場としても利用したと思われる犬走状の畝が残っている。城があった頃は飯沼という沼があって、鬼怒川とも繋がっていたという。

西二の曲輪には模擬櫓のほかに移築された関宿城薬医門や古河城書院の礎石、天正16年(1588年)建立の観音堂(旧岩井市内にあったものを移築)、本丸主殿(潮来市の堀之内大台城そ主殿遺構を復元したもの)などがあって、さながら野外博物館の様相。
西二の曲輪から本丸である一の曲輪のあいだには堀切が切られ、鐘堀池がある。この池は逆井氏が後北条氏に滅ぼされたときに城主常繁の夫人(娘とも)が鐘を被って飛び込んで自殺したとの言い伝えがある。のちにこの鐘を探そうとして掘り返されたことが名の由来となったそうだ。

堀に囲まれた一の曲輪は雑木の中に土塁の跡がはっきりと残り、東二の曲輪へは模擬櫓門を抜けて木橋を渡る。櫓門の左右は土塁、木橋の下は堀切でかなり深い。
説明版のよれば櫓門の遺構として東西に三個ずつ二列に方形に結べる柱穴と雨後溝、橋の遺構としては礎石、男柱、支柱の柱穴、柱桁支柱の穴が見つかっていて、遺構保存のために旧柱位置より西に1m、北に50cmずらして復元してあるとのこと。
東二の曲輪は広場になっているがかなり広く、周囲は土塁と堀に囲まれて横矢掛りが確認できる。さらにその南側には三の曲輪があって、片隅に井楼櫓が復元されている。
素晴らしい城址公園になっている逆井城であるが、難点は交通の便が悪いことで、常磐道谷和原C、東北道久喜ICどちらからも45分~50分、基本的に車でないと行けないところです。
(平成21年5月訪問 #37)

参考文献:東京近郊の名城・古城(PHP研究所)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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