歴史の勉強

遠江国  相良城

    

徳川家達書の石碑

本丸跡にある相良資料館

相良荘は遠州の海岸線にある要地で、永久元年(1113年)に藤原周頼がこの地に入り、以後相良氏を称するようになった。その子孫の長頼は源頼朝の命で建久9年(1198年)に肥後国球磨郡の地頭となって九州に下向した。長頼は人吉に居城を構えて九州相良氏の祖となり、九州相良氏は遠く明治まで続く。
相良氏が去った後は鎌倉幕府の直轄地となったが、戦国期に武田信玄が遠州に侵入すると遠州東部の拠点として再び重要視されるようになった。信玄は馬場信春に命じて城を築かせ、武田氏が家康によって駆逐されると、家康の鷹狩りのための相良御殿となっている。
江戸期には宝永7年(1710年)から延享3年(1746年)まで本多氏が三代に渡り1万5千石の相良藩主、代って同年板倉勝清が1万石で藩主となって、3年後の寛延2年(1749年)上野安中に移り、本多忠央が藩主となるが忠央は宝暦8年(1758年)に宝暦郡上一揆に関わり改易されてしまう。

宝暦8年(1758年)11月に今度は田沼意次が相良に1万石で入る。意次は築城を願い出て許可されると、明和5年(1768年)4月から工事にかかり、安永9年(1780年)1月に完成している。
萩間川、天の川を天然の外堀とし、堀に囲まれた本丸、その南西に二の丸、さらにその外側に三の丸があったとされる。城は東西500m、南北450mで本丸内の三重櫓を中心に櫓は全部で6基あり、三重の堀を廻らし総石垣であった。
この間に意次は明和4年(1767年)に側用人、明和6年(1769年)老中格、安永元年(1772年)には老中となり、加増に次ぐ加増で所領は5万7千石にもなった。

意次が老中を務めた時代を俗に田沼時代と称するが、賄賂政治の代名詞に使われるほどで、田沼家の門前は贈賄者が市をなすほどであった。
意次の政策はそれまでの重農主義を否定し、重商主義を導入した。藩政においても商業資本を積極的に導入した政策で臨み、養蚕・ハゼ栽培、瓦業の拡充、相良港の整備拡張などを行なった。
しかしこれらの積極策は商人は富ませたが武士の困窮を招き、天明の飢饉への対処の失敗などの失政も重なって武士階級の不満を誘った。
やがて天明6年(1786年)に意次は老中を罷免されて隠居させられ、松平定信が老中首座となると田沼氏の所領は次々と没収されて陸奥下村1万石に減知転封となり、翌天明7年には相良城も没収棄却された。
現在牧之原市役所相良支所、相良史料館が本丸跡に、相良小学校が二の丸跡に建っていて、徳川家達書による相良城址の石碑が史料館前に建っている。
そのほか遺構として相良小学校前に二の丸の土塁、仙台河岸に石垣が残る。
(平成20年10月訪問 #16)

参考文献:相良資料館パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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