歴史の勉強

遠江国  小山城

    

三日月堀

三重堀

東名高速吉田ICから県道34号線を南に向かったところに位置するのが小山城である。こやまと読み、城跡は能満寺山公園となっている。室町時代にこの地を治めた今川氏によって築かれたのがはじまりとされ、大井川右岸を守る砦のひとつであったのだろう。大井川近くの平坦な土地の中に、突き出たような台地の端の地は、砦を築くにはもってこいであったに違いない。
周知のように今川氏は義元の時に尾張進出を図り、逆に織田信長に敗れてしまう。いわゆる桶狭間の合戦で、義元は戦死し跡を氏真が継いだ。義元は信長のカリスマ性を高める意味もあって、必要以上に無能のレッテルを貼られているが、跡継ぎの氏真は本当に無能だった。

駿遠三の三ヶ国に及んだ今川氏だったが、義元死後9年して滅んでしまう。今川氏旧領は三河・遠江は松平(徳川)氏の、駿河は武田氏の勢力圏となり、大井川を境とする密約が結ばれた。しかし武田信玄は約束を反故にし、大井川を超えたこの地に城を築いた。これに対し家康も、攻撃を仕掛け、同地は両軍の合戦場となる。
元亀2年(1571年)に武田氏はこの地を奪うと、本格的な城を築いた。武田信玄はいよいよ遠江・三河・尾張と続く西方攻略を本格化させはじめた。小山の城将には大熊朝秀が任じられた。小山城は北方の諏訪原城とともに武田方の最前線として、西方の徳川軍と対峙する。

武田信玄は、翌元亀3年から西方への進攻を開始、遠江一の堅城高天神城攻略には失敗したものの、三方ヶ原の戦いで徳川軍をさんざんに打ち負かした。しかしその直後に病没し、家康は息を吹き返す。信玄の跡を襲った勝頼は、遠江に再三出兵して父信玄の落とせなかった高天神城を落とす。
これにより小山城は、高天神城への補給拠点になった。しかし勝頼は焦りから長篠の戦において織田・徳川連合軍に大敗し、この結果遠江も維持できなくなってしまう。天正9年(1581年)に家康は高天神城を奪還し、翌天正10年には小山城を攻めた。武田軍は開城、撤兵し城は放棄され、以後廃城となった。

麓には能満寺があり、山門手前に大きな駐車場も整備されている。能満時の山門より入り、城の裏手の急坂を登ると、主格部に至る。武田氏城郭の特徴である馬出しをはじめ、三日月堀などが整備されている。本丸跡は芝生があり、なぜか三の丸跡には模擬天守が立っているが、この城に天守があったとことは当然ながらない。
天守は犬山城をモデルにしたと言われ、歴史館と展望台になっている。天守の西側には見事な三重堀跡が残り、主格部の整備された堀よりも、見ごたえがある。また西方には井戸跡や大手門跡があり、大手門には復元冠木門が建つ。歴史的年代をまったく考慮しない整備状況だが、三重堀や三日月堀などは一見の価値あり。
(平成26年9月訪問 #111)

参考文献:関連ホームページ

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