歴史の勉強

上総国  大多喜城

    

模擬天守

薬医門

アクアラインが800円となったのはいいが、休日は混むので平日に代休を取って、梅雨に入る前に大多喜へ向った。我が家から木更津金田まで30分だから早いが、そこからが長い。
途中曲り損ねて遠回りしたりしてたどり着いた大多喜城は、本多忠勝が築いた城だ。千葉県というのは山が少なく平坦というイメージが強いが、房総半島南部は比較的山がち。
大多喜城も蛇行する夷隅川と谷に囲まれた、急峻な崖の上に築かれているが、その標高はわずか73メートルと、思ったより低い。山がちと言っても、房総半島だとこんなものなのだ。
もともと中世期大永年間(1521~27年)に上総武田氏が安房の里見氏に備えて小田喜(おたき)城を築いたのが前身であるといい、天文年間(1532~55年)には里見氏の重臣正木氏が入り、上総正木宗家の居城として4代に渡り継承された。
徳川家康の関東移封後は上総は家康の支配地となり、徳川四天王のひとり本多忠勝が城主となった。石高は10万石、安房里見氏への押えであった。

忠勝は中世小田喜城の南方に新たに城を築き、これが近世城郭としての大多喜城である。慶長14年(1609年)にフィリピンからメキシコに向う途中に遭難した、フィリピン群島長官ドン・ロドリゴは時の城主本多忠朝(忠勝の子)に歓待されている。
ロドリゴはそのときの様子を「城は高台にあって、第一の門の外には深い堀がある。そこにはつり橋があり、それを上げてしまえば全く通行できない。天然自然の地形が要害堅固を極め、鉄の門はいかめしい。御殿は金銀を使って装飾してあり、中でも城主の御殿は木造ながらも美しい」と日本見聞録に記している。
その近世大多喜城は、城内最高所に本丸を配し、東に向けて二の丸、三の丸と連ねて、曲輪の間は空堀や水堀で区画した。
本丸には三重の天守が築かれたが、天保13年(1842年)に焼失し再建はされなかった。現在本丸には模擬天守が建ち、内部は県立博物館になっている。

二の丸は藩主の御殿があった。現在の大多喜高校の敷地で、高校内に御殿裏門と伝えられる薬医門や周囲17m、深さ20mといわれる大井戸が残る。
三の丸は馬場や蔵、武家屋敷地で三の丸南に大手門があった。現在のいすみ鉄道大多喜駅辺りである。二の丸には4棟、三の丸には5棟の隅櫓があったという。
関東の城なので譜代大名が配置され本多氏三代の後は阿部正次、青山忠俊、阿部氏二代、稲垣重富とめまぐるしく城主が交代した後、元禄16年(1703年)に松平(大河内)正久が2万石で入封し、明治まで九代に渡り在封した。
(平成22年6月訪問 #48)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、、歴史読本・歴史と旅各誌、大多喜城パンフレット、関連ホームページ

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