歴史の勉強

上野国  太田金山城

    

西矢倉台西堀切

西矢倉下堀切

馬場下通路虎口

月の池

大手虎口

大手虎口北曲輪

大手虎口南曲輪

日の池

群馬県太田市の市街地にほど近いところにあるのが金山で、その標高は約235mある。平野の中の独立峰であるから周囲の見通しはよく、こういう場所は城や砦の好立地条件ともなる。
そして、この山頂付近に築かれたのが太田金山城とも新田金山城とも呼ばれる城だ。太田市街地から、その名も県道金山城址線が山頂付近の駐車場まで通じているからアクセスも良く、なにより遺構や整備状況が素晴らしい。
駐車場は広く何台もの車が停まっているが、ここは城の西側の部分で、さらに西側に見附出丸がある。名前の通り、城の西側の前衛部分だ。

実城へは駐車場から東に向うが、すぐに西矢倉台西堀切、さらに西矢倉下堀切がある。説明板によると、発掘調査では新旧二つの通路が見つかっているそうだ。
そして現れるのが石垣を復元した馬場下通路で、土橋を渡り石垣で作られた虎口に入る。細い通路を辿るとやがて木橋が架かっている。竪掘が切ってあるのだ。
その先には枠で囲ったスペースがあるが、ここには簡易な掘っ立て式の建物が二基あったようで、その場所が示されている。
通路から馬場曲輪に向うと、模擬の物見台があり、排水路跡も復元され、石垣も残る。馬場曲輪から大堀切を隔てて城の中核部分となる。

まず現れるのが復元された月の池で、円形の石を使ったもので、飲料水確保のものとも宗教的なものとも言われているようだ。
そして大手虎口、これがまた素晴らしいし、必ずと言っていいほど紹介写真に使われるほど絵になる。
虎口の南北両側にある曲輪はそれぞれ上下段に分かれ、北曲輪の階段状石垣や同じく南曲輪の模型や復元建物、さらに虎口の排水路なども復元されている。
さらに奥には日の池がある。虎口手前の日の池同様石垣、石敷きの池で飲料水確保の目的のほか、戦勝祈願や雨乞いなどの宗教的な儀式のためのものとも考えられている。

この太田金山城は、上杉謙信が攻めあぐねた城として名高いが、そもそもは文明元年(1469年)に新田一族の岩松家純によって築かれたとされる。
岩松氏は内紛によって分裂し弱体化していくなかで、重臣の横瀬国繁・成繁父子の下剋上によって奪われた。
というよりこの城を築いたのは岩松氏の重臣横瀬氏であり、城主として守備していたが専断が激しくなり、それを咎めた岩松氏が城攻めをしたが失敗、和睦して城を実質的に乗取り独立したらしい。
戦国期になると横瀬氏は関東管領上杉憲房、憲政に従うが、上杉氏が後北条氏によって越後に追われると、一転して北条氏に従う。

新興とはいえ強大な北条勢力と落日の上杉を天秤にかけての選択であり、小豪族としての当然の選択であったともいえる。
が、所詮は小豪族の悲哀で、永禄3年(1560年)に越後から上杉謙信が攻めてくると上杉氏に付き、永禄9年(1566年)には再び北条氏に従う。
この年にも上杉謙信に攻められているが、城は陥ちなかった。この前年に横瀬氏は由良氏と改姓している。
やがて永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟が破れると、上杉・北条両氏は和睦して相越同盟を結ぶが、この和睦に奔走したのが由良成繁といわれる。

しかし相越同盟も長くは続かず、北条氏康が没すると破棄され、太田金山城も上杉氏の攻撃にさらされる。天正2年(1574年)には実に五度にわたり攻撃を受けたというが、城は陥ちず持ちこたえた。
しかし上杉氏も謙信が没すると後継を巡って養子同士の内紛となる。結果景勝が勝利して上杉当主となるが、景勝は武田勝頼を味方にする条件として東上野の地を武田氏に割譲した。
これによりこの地は武田の支配地となり、由良氏もその配下となった。だが、それも長くはなく武田氏が織田信長によって滅ぼされると、信長の重臣滝川一益が上野の支配者となった。

しかしそれもつかの間で本能寺の変で信長が横死し、今度は小田原の北条氏の支配地に戻る。
北条氏直は計略によって由良氏の当主国繁を小田原に呼び出して幽閉し、北条氏邦ら3千騎で金山城を攻めるが攻めきれず、和議となった。
和議の条件だったのか国繁は金山城を出て桐生に移り、金山城には北条氏の城代として清水正次を入れた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐を前に金山城は放棄され、さらに北条氏の滅亡によって廃城となった。
なお由良氏は改易を免れて、秀吉のもとで常陸牛久で5千石を与えられた。
(平成22年5月訪問 #92)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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