歴史の勉強

越前国  大野城

山麓から大野城を望む

    

復興天守と小天守

武器櫓跡

金森長近像

土井利忠像

越前大野は北陸の小京都と呼ばれ、周囲を山々に囲まれた落ち着いた雰囲気の城下町である。その大野の市街地の外れに標高249mの亀山があり、その山頂には天守閣が望める。これが大野城であり、亀山城とも呼ばれる。
越前は戦国時代、長く朝倉氏の支配下にあった。大野郡は朝倉氏の一族が代々郡司を務めており、間接的な支配地であった。
朝倉氏最後の当主義景が織田信長によって滅ぼされたとき、大野郡司は義景の従兄弟朝倉景鏡であった。景鏡は刀禰坂の戦いで織田軍に破れて逃げ帰った当主義景に大野に移って再起を期すように勧めた。
しかし、これに従って大野に移った義景を裏切って襲い自害させた。景鏡は、義景の首を信長に渡し降伏を許され、土橋信鏡と改名した。大野市内には朝倉義景の墓も残っている。
だが、信鏡は翌天正2年に一向一揆によって平泉寺に追い込まれる。朝倉を裏切った景鏡を本願寺が赦すはずがなく、それを悟った景鏡は敵中に自ら飛び込み戦死したとされる。

一向一揆の盛んであった越前は朝倉氏の滅亡後、一向一揆が各地に起こったが、やがて信長により越前は平定され、信長の重臣柴田勝家の支配下に置かれた。
この越前平定戦の際に、大野郡には美濃から油坂峠を越えて金森長近が進撃し、一向一揆や朝倉残党を討った。その功により大野一帯は長近に与えられた。
長近は当初朝倉景鏡の居城であった戌山城に入ったが、すぐに戌山城の東1kmにある亀山に新城の築城を開始し、4年の歳月をかけて完成させた。これが大野城であり、長近は同時に城下町の建設を行った。
大野城下は亀山の東側に東西、南北それぞれ6筋の短冊状に町割りがされ、亀山側に武家町、町家、その外側に寺町がおかれた。これが小京都の所以であり、現在の大野市街の原形は長近によって作られた。

長近は天正14年(1586年)に飛騨高山に転封となり、その後青木秀似、長谷川秀一と秀吉の側近の将が短期間領有し、その後に織田信雄の長男秀雄が5万石で入る。
その秀雄も関ヶ原役で西軍に与したために領地を没収される。関ヶ原役の頃の越前は、多くの中小大名が分割して領有していたが、ほとんどは西軍に属したために領地は全て収公され、徳川家康の二男松平(結城)秀康が福井藩主となって、一国を支配した。
大野には秀康の重臣土屋正明が封ぜられるが、正明は秀康死去の時に殉死し、これが幕府の禁に触れて改易、やはり松平家重臣の小栗美作が城主となった。
さらに寛永元年(1624年)になると秀康三男の松平直政が5万石で大野城主となる。その後秀康の子供たちが相次いで城主を務めては転封となり、天和2年(1682年)に大老土井利勝の四男土井利房が常陸下妻から4万石で移ってきた。
土井氏の入封でようやく安定を見、幕末まで土井氏が城主を務めた。

亀山山頂には現在復興天守と小天守があり、これらは昭和43年(1968年)に建設され、内部は金森氏や土井氏の遺品を展示する資料館になっている。
かつての山頂は、南端部が一段高い櫓台となっていて(現在の小天守の位置)、そこが天狗之間と言われていた。天狗之間は穴倉を持ち、北側の石段で天守と連絡していた。
この天狗之間には土井利勝の甲冑の入った長持が納められていて、参勤で帰国した藩主は、まず天狗之間に入ってこの長持に拝礼するのが常であったという。
土井氏の歴代では七代利忠が藩政改革を積極的に行い、財政難で破綻寸前の藩を雄藩に転換させた名君として名高く、城址に銅像が建つほか、大野城と大野城下を築いた金森長近の銅像も本丸跡に建てられている。
(平成19年9月訪問 #2)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、大野城パンフレット、関連ホームページ

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