歴史の勉強

土佐国  岡豊城

    

三の段


伝厩跡曲輪

戦国時代に四国を統一したのは長宗我部元親だが、その直後に行われた豊臣秀吉の四国侵攻の前に屈し、土佐一国に押し込められた。その元親が生まれたのが岡豊城である。
その後、元親は天正16年(1588年)に大高坂山に新城を築いて移るが、それまで長宗我部氏の本拠として機能している。
鎌倉時代初期に信濃秦氏の宗我部能俊が土佐に移住し、長岡郡に住したことから長岡郡の宗我部氏ということで長宗我部を名乗ったのが氏の始まりとされる。同じく香美郡に入った宗我部と区別するためで、こちらは香宗我部を名乗った。
もっとも確証には乏しく、長宗我部能俊が岡豊に城を築いたかどうかもわかっておらず、したがって築城時期も不明である。
しかし永正5年~6年(1508~9年)にかけて岡豊城落城が記録されており、このころには長宗我部氏の本拠であったようだ。

岡豊山は標高97mの蛇紋岩で組成された独立丘陵で、その山全体を城域としている。東から南にかけては急傾斜、南側には国分川が流れ、南から西にかけては湿地が広がっていた。
一方、北側は傾斜が緩く、そのまま四国山地に繋がっていたらしいが、現在は断ち切られている。この付近にいくつかある低い丘陵の一つであり、現在は高知県立歴史民俗資料館が併設されている。
博物館では特に英雄元親をはじめとした、長宗我部氏の歴史や古代からの土佐を知ることもでき、駐車場も利用できる。駐車場脇から城域に入ると階段状に段と呼ばれる曲輪が配置されている。

本丸にあたる詰が山頂にあり、詰を中心に北東に二の段、南から西にかけてが三の段、さらにその西側を囲むように四の段が造られている。さらに詰の東側の一段低いところに詰下段が設けられており、各曲輪には土塁や石積み、建物跡などが確認されている。
さらに詰の西南には竪堀を挟んで楕円形の伝厩跡曲輪があり、西からの攻撃に備えた出城の役割を果たしたと考えられている。また詰の南にも出城の役割を果たす伝家老屋敷曲輪があった。
城内の遺構は空堀や虎口、井戸などでけっして多くはないが、よく整備され見学も容易である。またほとんどの曲輪が発掘調査されており、詰や三の段の礎石建物跡が復元されている。

城域は比較的コンパクトで、とても四国を統一した元親の本拠としては狭い印象が残るし、防御面でも土塁や竪堀、二重堀切などを多く採用しているものの、堅城とまではいいがたい。
それらもあってか元親は大高坂山に移ったのだろうが、大高坂山は水に弱く、結局岡豊に戻ったようだ。しかし天正19年(1591年)に浦戸に城を築いて移り、岡豊は廃城となった。
(平成27年8月訪問 #139)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、岡豊城跡(高知県立歴史民俗資料館)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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