歴史の勉強

備前国  岡山城

月見橋からの天守


黒漆塗下見板張の天守を持つことから、烏城との別称があるのが岡山城である。東隣の姫路城が白のイメージが強く、白鷺城の別称をいただくのとは好対照の姿を旭川にうつす、城域南北約3.5km 東西1.3kmの巨城である。
旭川は現在城の北から東側を大きく取り巻くように流れており、川に沿うように天守が聳えている。もともと旭川の流れはもっと東であったが、築城の際に付け替えられ、城の北から東側の防御線としたものだ。
旭川からいくつかの流れが分かれた湿地帯の中に、岡山、石山、天神山という名の丘があり、その岡山の上に本丸が築かれたので岡山城の名が生まれ、城下町となり、明治以後は県の名にまでなった。
この地には戦国時代末期金光氏の城があったが、そのころの本丸は石山にあったといわれる。元亀元年(1570年)金光宗高を謀殺して城を奪ったのが、戦国の梟雄といわれる宇喜多直家であった。

直家は備前守護代浦上氏の一族である浦上宗景の家臣であったが、権謀術数にたけ、勢力を急速に伸ばしてやがては主家を倒し、やがては有力な戦国大名となった人物である。
直家は天正元年(1573年)に石山城に本拠を移して城を拡張し、西国街道を南に大きく迂回させて城下を通過させ、商人を呼び寄せて城下町を形成していった。これが今の岡山の原型といっていいだろう。
直家は織田信長に与して生き残り、天正9年(1581年)に没した。その子の秀家は豊臣秀吉の寵臣のひとりとなり猶子にまでなった。秀家は岡山に本丸を移してそれまでの石山を取り込んで二の丸とした。
本丸は本段(本壇)、中の段、下の段と三段に分かれ、本段には五重六階の望楼型天守が設けられた。このときに城の北側と東側の防御が弱くなるために、旭川の流れが付け替えられ、現在の岡山城の形となった。

秀家は豊臣政権で五大老のひとりとなったが、秀吉死後はその後ろ盾を失い、お家騒動が起きて弱体化し、関ヶ原では西軍に属して戦後は撮り潰されてしまう。秀家は死一等を減じられて八丈島に流された。
代わって岡山に入城したのは小早川秀秋である。関ヶ原で家康に内通して東軍を勝利に導いた人物である。秀秋は城の拡張整備を継続し、中の段南隅に大納戸櫓を設けた。この櫓は沼城の天守を移築したともいわれ、三重四階の大規模なものであった。秀秋は入城2年後の慶長7年(1602年)10月に急死し、嗣子がなかったために小早川家は断絶してしまった。

翌慶長8年に池田忠継が城主となった。忠継は姫路城主池田輝政の二男で、母が家康の娘であった。しかしわずか5歳であったために、兄の利隆が代政した。
忠継は慶長20年(1615年)に死去し、代わって忠継の弟で同じく家康の孫の忠雄が入る。忠継時代にさらに城は拡張整備され、岡山には本丸、岡山から石山にかけて二の丸内郭、その西に西の丸、それらの南に二の丸、さらに西南に三の丸が設けられた。本丸内には天守のほかに3つの御殿と櫓が11棟あったという。
寛永9年(1632年)に忠雄が没すると子の光仲が家督となったが、わずか3歳であったために因幡鳥取に転封となった。代わって鳥取から光仲の従弟で名君といわれる池田光政が入り、明治まで光政系池田氏の城となった。


大手門跡

内下馬門跡

鉄門跡

大納戸櫓跡

岡山城本丸跡は現在烏城公園として整備されている。大手は南側になり、内堀を目安橋で渡ると大手門となるが、明治初期の古写真では大手門のすぐ後ろ側に大納戸櫓が威圧するように建っている。
大手門は枡形で左手には太鼓櫓が建っており、二の門である内下馬門を抜けると、蔵や花畑などがあったとされる本丸下の段であった。ここから鉄門を抜けると表向きとも呼ばれる本丸中の段となる。
中の段西南隅には大納戸櫓が聳えていたほか全部で五棟の櫓があった。北東隅には唯一の現存櫓である、月見櫓が建っている。また中の段には政庁である表向御殿があった。
岡山城は宇喜多時代~小早川時代~池田氏初期にかけて頻繁に改修が行われたとされ、例えば大納戸櫓の石垣は小早川秀秋が原形を築き、池田氏が大幅に積み直したもので、一方月見櫓の石垣は池田忠雄時代のものだそうだ。
また天守台の石垣は自然石を横に積んだ宇喜多時代のもので、石垣を見比べてみるのも面白い。

  

不明門

六十一雁木要害門

天守南面

天守北東面

大納戸櫓跡から不明門を潜ると本段(本壇)と呼ばれる天守曲輪となる。移設された礎石群、その北には六十一雁木要害門がある。不明門は文字通りに普段は閉じられていて、賓客が訪れた際に開かれた門である。
六十一雁木要害門は旭川の船着場から天守曲輪に入る門で、六十一段の雁木(石段)の下には六十一雁木下門が、登ったところには要害門があった。昭和41年(1966年)に不明門と六十一雁木要害門が復興された。
本段中央は芝生の広場になっていて、その向こうに天守が聳えているが、広場のところには本段御殿があった。中の段の御殿が表向きであるのに対し、本段の御殿は奥向きで藩主御座所や寝間、大奥などがあった。この本段御殿の復興計画があるが厳しい財政事情から進展していないようだ。
本丸御殿跡の芝生広場の向こうには復元天守が聳える。岡山城の天守は五重六階の複雑な構造で、前期望楼型という古い形式を持つ。

宇喜多秀家がその地位にふさわしい天守をと築いたもので、慶長2年(1597年)に完成したとされる。その後改修を受けながらも昭和の時代まで現存したが、昭和20年(1945年)6月の岡山空襲で焼失してしまった。
現在の復元天守は、昭和41年(1966年)に再築され、内部は資料館となっている。細部はともかく、比較的忠実に復元されている。
天守台は不等辺五角形で、天守台いっぱいに建てられているために、天守一階も五角形をしている。西側には塩蔵があって天守と一体化し、天守への入口も塩蔵にあった。この不等辺五角形を最上階では方形にするために、三階以上は破風の中に組み込まれている。
天守の外側には下見板が張られ、その黒さが烏城の名の起こりとなった。屋根には金箔押しの桐文瓦が掲げられ、平成9年(1997年)に軒先の瓦や鯱に金箔が施された。


廊下門

月見櫓

石山門跡

西手櫓

閑谷学校講堂

天守の西から廊下門の潜り、再び中の段へ戻ると月見櫓がある。この櫓は空襲でも焼け残った本丸内唯一の現存建築で、池田忠雄時代に建てられた。内部は非公開であるが三階で月見の宴が催されたことからの命名であるという。
雨戸が閉まっているのが普段の状態で、開け放つと廻縁がある。この廻縁は元和~寛永年間に増築されたものだ。一階には戦闘用の礫が敷き詰められ、二階には石落しもあるという、およそ優雅な名前にそぐわない櫓でもあった。
本丸から内堀を挟んで西側には二の丸内郭、西の丸があった。石垣や石山門跡などが残る。石山門は二の丸内郭、西の丸への正門で、西の丸には西手櫓が現存する。西手櫓は一層目と二層目が同一の大きさの重箱式で、池田利隆時代のものだ。
さらに旭川を挟んで本丸北側には後楽園が広がる。後楽園は池田綱政が貞享4年(1687年)から14年間をかけて造営した大名庭園で、現在では月見橋で旭川を渡るが、藩政時代は船で渡り入園した。日本三名園の一つでもある。さらに38㎞東にある、池田光政が造った閑谷学校もぜひ訪れたい。
(平成22年8月訪問 #83)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・岡山城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、岡山城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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