歴史の勉強

美濃国  大垣城

    

旧柳口門

復興天守

鉄門跡

戸田氏鉄像

東大寺領大井庄に属する大垣に城が築かれたのは、天文年間(1532~55年)のことであった。
美濃の守護であった土岐氏の家臣宮川吉左衛門尉安定の築城といわれ、その後織田信長の一族が城主となったあと、豊臣時代には氏家直元、氏家直重、池田信輝、三好(豊臣)秀次、木下秀長、加藤光泰、一柳直末、羽柴秀勝と豊臣氏の一族や腹心の武将達が相次いで城主となった。
このころから大垣城は要の城として城郭を堅固にし、一柳時代の天正16年(1588年)には天守閣も建てられた。
この枢要地大垣に羽柴秀勝の後に入ったのは伊藤祐盛であり、祐盛は天守閣を大修築したと伝えられる。祐盛の天守閣の工事の際に、山伏を人柱にしたという伝説が伝わる。
工事開始の際に現れた山伏を見かけた祐盛が、家来に命じて山伏を捕らえ、強引に天守閣の基礎の穴の中に放り込んで人柱にしたというのである。
そのとき残された六尺杖、蓑、笠が戦災で焼失するまで城内に保存されていたというが、天守閣復興工事の際に人骨は出てこず、あくまでも伝説の域をでない。

大垣城が脚光を浴びたのは、関ヶ原役における西軍の拠点となった為である。当時、大垣城主は祐盛の跡を継いだ盛宗の時代であった。
石田三成は大垣城を西軍の拠点としようとするも、最初は盛宗の拒否にあう三成は豊臣秀頼の上意と説得し、西軍の首脳が大垣城に入り決戦前夜を迎えた。
宇喜多秀家はじめ西軍の主だった将は大垣籠城を主張するが、三成は野戦を選び、決戦は大垣西方の関ヶ原で行われ、西軍の敗北となった。

大垣城には三成の女婿福原長堯を主将に熊谷直盛、垣見一直、木村勝正、高橋元種、相良頼房らの各将あわせて守備兵7千5百が置かれた。
だが関ヶ原の西軍敗戦の報に相良、高橋らが東軍に寝返り垣見、熊谷両将を謀殺した。福原長堯だけが本丸に籠って最後まで戦った、徳川家康の勧告に結局は開城した。この時に東軍は城下に火をかけ三日間にわたり燃え続けたという。
城主伊藤盛宗は西軍に属して戦死したため、大垣城は収公され松平康重が城番となった。近世城郭として生まれ変わった大垣城には、関ヶ原直後の慶長6年(1601年)2月石川康通が5万石で入り元和2年(1616年)9月まで三代に渡り在城し豊後日田に転封となった。
その後松平(久松)氏二代、岡部氏二代、松平(久松)氏一代と城主は目まぐるしく代り、寛永12年(1635年)7月に戸田氏鉄が摂津尼崎より10万石で入部する。以後、戸田氏は幕末まで11代235年に渡り在封した。

大垣城の天守は天正16年(1588年)に完成した四層四階という、比較的珍しい作りで総塗りごめの優美なものであったという。
修築を重ね明治の棄城も免れて、昭和11年(1936年)には国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)7月に戦災で焼失してしまう。
その後、天守再興の気運が高まり昭和33年に再興に着手し、翌34年に完成し大垣市のシンボルとなった。天守は復興天守で古写真と比べても、比較的忠実に再興されている。

大垣城は水の城といわれ、天守のある本丸は狭く堀で囲まれており、御殿は二の丸に建てられていた。本丸と二の丸の間には廊下橋が架けられており、その橋だけが唯一の交通手段であったようだ。
大垣城の石垣は自然石を積み上げたもので笑い積みと呼ばれる。本丸内鉄門跡には荒々しい石積が残る。
復興天守内は歴史資料館となっていて、四階の天守は展望室になっている。ここから見ると関ヶ原や遠く岐阜城が望め、戦略的に重要な位置であったことがよく分かる。
本丸、二の丸跡は現在大垣公園となっており、園内には戸田氏鉄の銅像も建っている。
(平成19年9月訪問 #3)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、日本の名城(人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、大垣城パンフレット、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -