歴史の勉強

陸奥国  小高城

    

小高城を望む

本丸跡にある小高神社

桓武平氏将門流である相馬氏は、その祖である小次郎師常が下総国の相馬御厨を譲られて相馬次郎と名乗ったことに始まる。
師常は源頼朝の奥州征伐に従って功を挙げ、奥州行方郡を与えられ、六代重胤が一族郎党とともに下総から奥州行方郡に移り、海道三郡(宇多・行方・標葉)に根を下ろして明治維新までほぼ800年間に渡り同地で領主であり続けた。
重胤が奥州に土着したのは、元享3年(1323年)のことといわれ、この10年後に鎌倉幕府が滅ぶ。重胤は行方郡太田の別所館に居住したあと、建武3年(1336年)に小高城を築いて移った。
小高城は、慶長16年(1611年)に中村城に移るまでの約300年間相馬氏の本拠となった。

小高城の所在地は南相馬市小高字古城、旧小高町の中心部に近く、城址には小高神社がある。城山の前を小高川という川が流れていて妙見橋という橋が架かっている。
妙見橋を渡ったところに小高神社の鳥居があって、それを潜ると城山への階段があり、階段を上ったあたりが本丸跡である。
城山は比高10mほどだから本丸まではすぐであり、それほど堅固な城ではなかったことがわかる。今の神社への参道は後から付けられたもので、大手道は東側、つまり参道から大きく右手に回りこんだあたりにあったという。

もとの大手道のあたりは堀があったらしく、若干周囲より低くなっているが、それ以外には堀の跡を感じさせるものは全くない。
大手道を上がったあたりに二の丸、三の丸、馬場などがあったようで、その先の現在の小高神社のあたりが本丸跡らしい。なお、小高神社は妙見神を祀っており、相馬氏の守護神である。城址には神社以外は何もない。
小高城は別名紅梅山浮舟城という雅な名があり、それは遠くから見ると川に舟を浮かべたように見えるからという。戦いの砦とは思えない優美さがあったのかも知れない。

相馬氏は小高城を本拠にして、周辺の諸豪族と戦いを繰り広げて戦国大名化した。やがて近隣で勢力を広げた伊達氏と対立し、長く厳しい戦いを続ける。
近隣の小大名は次々と伊達氏の軍門に降ったが、相馬氏は最後まで伊達氏と交戦し、近世大名への道を開いた。その代償として天文9年(1540年)~天正18年(1590年)の50年間に、伊達氏との合戦は実に30回にも及んだという。
秀吉の奥羽仕置によって相馬氏の領地は安堵され、伊達氏との戦いも終わりを告げた。秀吉政権の下で相馬氏は常陸の佐竹氏の与力大名とされた。

佐竹氏は石田三成と昵懇であり、また関東に移った徳川家康を快く思っていなかった。そのために関ヶ原役では消極的に行動し、与力であった相馬氏も兵を動かさなかった。
この間、相馬氏当主義胤は慶長3年(1598年)に小高城から本拠を牛越城に移しているが、慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。
義胤は久保田移封を受け入れる決心をするが、嫡男利胤の進言によって幕府への働きかけをすることにした。利胤の奔走と宿敵であった伊達政宗の取り成しによって、この年10月には利胤に本領が安堵され相馬藩が成立した。
義胤は領地没収騒動を不吉として慶長8年(1603年)には再び小高城に戻っている。その後、義胤の跡の利胤は慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、小高城は廃城となった。
(平成20年9月訪問 #8)

参考文献:下総・奥州相馬一族(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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