歴史の勉強

上野国  小幡陣屋

    

喰違い虎口跡

復元された中門

復元された拾九間長屋

本丸御殿跡

楽山園

織田家墓所

世界遺産に沸く富岡製糸場と上信越道を挟んで対極に位置するのが城下町小幡だ。行政区分では群馬県甘楽郡甘楽町小幡となる。ここが城下となったのは、徳川家康が江戸に入ってからのことだ。
家康の娘婿奥平信昌が3万石を与えられ、慶長6年(1601年)に関ヶ原役の功で美濃加納に加増転封されるまでの約10年間、この地は奥平氏の支配下にあった。
ちなみに信昌は、武田勝頼に攻められた三河長篠城の籠城戦で有名であるが、もともと先祖は上野国甘楽郡の出身といわれている。

奥平氏が去ったあと、水野氏1万石を経て、元和3年(1617年)に織田信雄の四男信良が2万石で入った。信雄は織田信長の二男であるが、父親には比べるべくもなく、秀吉により改易された。
その後小大名として復活したものの、関ヶ原役で西軍関与を疑われ再び改易、大坂の陣の際に家康に情報を流したとされ、その功もあってか元和元年(1615年)に大和大宇陀3万石と上野小幡2万石の計5万石を与えられた。
信雄自身は大和の3万石を領し、小幡は信良に与えられたのが小幡藩織田氏成立の経緯である。信長の孫である信良には、国主格の待遇が与えられた。

織田氏は7代150年に渡って小幡藩主をつとめたが、七代信邦のときに明和事件(山県大弐を中心とする尊王論者弾圧事件)とその後の内紛により、出羽高畠へ移された。
代って上野上里見より松平(奥平)忠恒が2万石で入り、4代にわたり藩主をつとめ廃藩置県に至る。奥平松平家は、関ヶ原役前まで小幡を領した奥平信昌の四男忠明に始まる家で、小幡に入った系統は、さらにその分家である。
先祖をたどれば奥平信昌につながることから故地といってもいいが、三代の忠恵のときの嘉永元年(1848年)に城主格となり、以後は小幡城と称することができるようになった。

明治になって城内の建造物はことごとく破却されたが、城下町の景観や風情は比較的よく残されていた。平成に入って再整備され、楽山園とよばれる大名庭園を中心に、城門や長屋、土塁などが復元され、史跡公園化されている。
大手門は小幡の街の中心にある歴史民俗資料館付近にあった。資料館脇に大手門の礎石が残る。そこから中小路と呼ばれる、かつては武家屋敷が並んでいた広い通りを歩く。
勘定奉行を務めた高橋家や喰違い虎口跡を見ながら進むと陣屋跡に達する。陣屋の西側には雄川が流れ、主郭は一辺230mのほぼ正方形であった。

太平の世に築かれたために、行政機能優先で防衛機能は弱かったらしい。西側から南側こそ小さいながらも川が流れているが、その対岸の標高は陣屋側より高く、陣屋内が見下ろせる。
陣屋の北から東にかけては塀が建てまわされただけで、大規模な堀はなかったようだ。曲輪間には土塁が築かれており、復元されてもいるが、防御力は無いに等しかったようだ。
むしろ2万石の小藩には過ぎたるものの印象がある庭園が見事だ。楽山園と名付けられ、国指定の名勝となっている。陣屋跡ではなく名勝楽山園を前面に出して案内をしている。

現在土塁のほかに、城門と拾九間長屋が復元されている。平成22年に復元された中門はあまりに立派すぎて、とても当時と同じとは思えない。また平成20年に拾九間長屋が、平成21年には藩邸と庭園を区切る庭門と塀が復元されている。
このほか周辺には名主松井家を移築復元した松井家住宅や武家屋敷の松浦家住宅、用水路である雄川堰と取水口や分水路など多くの遺構があり、じっくり散策がおすすめ。
また1㎞近く離れているが、崇福寺の裏手のひっそりとした雰囲気のなかに織田家墓所がある。
(平成23年5月訪問 #107)

参考文献:名称楽山園パンフレット、小幡まち歩きマップ、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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