歴史の勉強

若狭国  小浜城

    

天守台

西櫓跡

天守模型

関ヶ原役後、若狭国に配されたのは京極高次であった。京極氏は本姓佐々木氏といい源氏の名門で、その祖には佐々木道誉がおり、さらに遡れば宇多天皇に至るという。
関ヶ原役当時は近江大津の城主で、東軍に属して籠城し、西軍の軍勢1万5千を引きつけた。結局はその圧力に開城したが、西軍の軍勢は関ヶ原本戦には間に合わず、間接的に大いに功をあげた。大津開城は9月15日早朝で、まさにこの日に遠く関ヶ原では本戦の決戦が行われた。
戦後家康は、「もう1日城を持たせたら、高次は近江で40万石を得られたものを」と言ったいうが、1万5千の兵力をわずか3千の城兵で釘付けにした功績を評価されて、2万5千石を加増され8万5千石で若狭に入部した。さらに翌慶長6年(1601年)には1万2千石を加増された。
若狭に入った高次は、それまで若狭の政庁であった後瀬山城を廃し、小浜湾に面した蜘蛛の浜の地に新城を築くことにした。日本海交易の拠点の一つである小浜の湊に近く、利便性や経済性を重視した選択だった。この新城が小浜嬢である。

のちに雲浜と改称されるこの地は海に面し、東側から北川が、南から南川が海にそそぐ三角州であった。高次は南川の流れを迂回させて、南北両川で城地を挟み込む形にし、天然の堀にすることにした。しかし工事は軟弱な地盤もあって難工事となり、高次の代には完成を見なかったという。
高次の跡を継いだ忠高は引き続き城の工事と城下町の整備を行ったが、寛永11年(1634年)に出雲松江に転封となった。その跡に入部したのが酒井氏である。
この酒井氏は雅楽頭系酒井氏で、当時の当主は酒井忠勝であった。忠勝は三代将軍家光の信頼が厚く、家光没後は四代将軍家綱を補佐し、長く幕閣にあった。そのため若狭入封後も帰国は4回しかなく、その期間も短かったという。これ以後、酒井氏は転封がなく、幕末まで酒井氏の治世が続く。
酒井氏は京極氏時代の城の工事を引き継いだが、京都二条城の様式を取り入れるなど、城の縄張りに大幅に手を加え、三重三階の天守も造営した。城の完成は寛永19年(1641年)のことで、これにより日本海岸唯一の海城となった。

現在の残るのは、ほぼ正方形をした本丸部分のみで、本丸内には小浜神社があるというより、小浜神社しかない。ほかには天守台を始めとした石垣が残るだけである。
この石垣はほぼ本丸の周囲を巡っており、そのすぐ近くにまで民家が迫っている。つまり本丸部分を除いて、宅地化されてしまったのだ。城の石垣に接して民家の塀があるというのは、なんとも不思議な光景である。
本丸内の古地図等によれば本丸の周囲を内堀が囲み、北側に北の丸、西側に西の丸、南側に二の丸、東側には三の丸が配され、それらを外堀が囲んでいた。東西152間、南北145間とと全体もほほ方形で、本丸の南西角に天守があった。
天守は約11mの天守台の上に築かれたが、天守台に登ってみると意外と狭く、小振りのものだったようだ。ちなみに天守台の模型が若狭民俗資料館(JR東小浜駅近く)に展示されているほか、小浜市では天守閣復元整備計画があるそうだ。
城の城門は16、櫓は本丸と二の丸に各7基、三の丸に10基、北の丸に2基、西の丸に4基の計30基といわれており、かなりの規模の城であったが、残念なことに明治になって失火により建物の大部分を焼失し、焼け残った天守も明治7年(1874年)に売却されて撤去された。
天守台には明治から大正にかけて灯台がおかれた。さらに戦後本丸以外は埋め立てられて宅地化されてしまった。現在本丸跡にある小浜神社は、酒井忠勝を祀るもので明治8年(1875年)に建立された。
(平成22年10月訪問 #82)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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