歴史の勉強

上野国  沼田城

真田信吉が鋳造した城鐘をつる本丸跡の復元鐘楼

    

西櫓台の石垣・石段

平八石

堀跡

二の丸土塁

沼田は群馬県北部の中心地であり、越後、会津、信濃へ街道が通じる交通の要地である。利根川が南北に貫流し、多くの河川が利根川に合流する地でもあり、小さな盆地状の地形をなす。
越後との境の山地に源を発した利根川は、急峻な地形から解き放たれたように土や岩を削り、河岸段丘を築いた。現在の市街地も段丘上にあり、その中心に位置する沼田公園が沼田城址である。
城の始まりは天文年間であったという。一説に三浦泰村の後裔といい、また大友氏の一族ともいう沼田顕泰が、天文元年(1532年)に要害であるこの地に城を築いた。
沼田氏はやがて上杉、武田、後北条の三氏の争いに巻き込まれていく。沼田は越後から関東へ進出する場合に必ず押さえなけならない地であった。上杉は関東へのルートを確保するために沼田を重視した。
一方で上杉の宿敵武田は敵を背後に受けることになるために、沼田を確保したい。また関東の北条も関東の最北端の地の沼田に上杉や武田の兵站地があるのは見過ごせない。要地であるがための宿命であった。

沼田氏は誰に属するかで御家騒動が起き、永禄12年(1569年)にその隙を上杉に突かれて会津に落ちた。城は上杉の支配するところとなり、本庄秀綱が城代として入った。
天正6年(1578年)に上杉謙信が死去すると城は後北条氏が制圧し、城代に猪俣邦憲は入った。上杉家では子なくして死んだ謙信の後継をめぐって御館の乱という争いが起きた。
養子同士の争いだ。一方は上田長尾家(謙信の出自は府中長尾家)から入った景勝、もう一方は後北条氏から養子になった景虎で、結局景勝の勝利に帰した。
もともと関係が悪化していた上杉氏と後北条氏であったが、景虎が当主となれなかったために、その関係悪化は決定的となった。

他方甲斐の武田勝頼はこの動きに対して、後北条氏と結んでいた同盟を破棄し上杉と結んだ。もともと勝頼は上杉と事を構える気はなく、上杉の後継争いでは景勝に肩入れしていた。
景勝は武田による沼田支配を承認し、天正8年(1580年)に勝頼は真田昌幸に命じて城を攻略させた。翌天正9年には後北条氏の支援を受けた沼田景義が沼田奪還を目指して挙兵したが、真田氏により阻まれ沼田氏は滅亡した。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると信長の将滝川一益が関東管領として上野に侵攻してきた。真田昌幸は信長に帰順し、滝川一益に属す。
だがこの滝川時代は本能寺の変によりあっけなく崩壊する。上野は後北条、徳川、上杉の争いの場と変わった。徳川と後北条の盟約により、信濃佐久と甲斐都留を徳川の勢力圏とすると同時に沼田を後北条領とすることになった。これを知った昌幸は上杉と結び沼田死守の旗幟を鮮明にした。

やがて秀吉の関東進出を前に沼田の帰属問題が起る。天下の統一を目指す秀吉は後北条氏を懐柔するべく沼田城と沼田領の三分の二を後北条氏に、名胡桃城と残り三分の一を真田氏へと裁定した。
真田昌幸は整備した沼田城を去り名胡桃城に退いた。沼田城には再び猪俣邦憲が城代として入った。しかし北条氏政は名胡桃が反攻拠点になることを恐れ、秀吉の裁定を無視して名胡桃城を攻撃する。
このことが秀吉の小田原征伐のきっかけとなり、天正18年(1590年)に後北条氏は滅亡、城は再び真田氏のものとなり昌幸は嫡男信之を沼田に置き、自身は上田に拠った。
関ヶ原役では周知の通り真田氏は東西に分かれて戦う。すなわち昌幸と幸村(信之弟)が西軍、信之が東軍である。西軍に属した昌幸が上田城で徳川秀忠を釘付けにして、これによてt秀忠が関ヶ原本戦に遅参したのは有名な話である。
東軍に属した信之は戦後父の居た上田に移り、長男信吉が沼田城主となった。天和元年(1616年)に五代信利が改易され幕領となった。
20年ほどして本多正永が3万5千石で入封し、本多氏三代、黒田氏二代ののち寛保2年(1742年)に入り明治に至った。

正保年間(1644~48年)に各藩が幕府に提出した城絵図では、南西に位置する天然の崖上に本丸を置き、南東方向に二の丸、三の丸など各曲輪を配置している。
本丸の周囲の崖は約15m以上で、その下には水堀を巡らす。本丸の北側が古城と呼ばれる部分で、ここが沼田氏が築いた城であった。古城の西~北にかけても崖で、その高さは約36mもあった。
本丸と二の丸、二の丸と三の丸など各曲輪間には空堀が掘られ、二の丸以下には土塁を築き、空堀に囲まれた変則的な枡形を配置するなど厳重な構えである。本丸には表門の南に三重櫓、北には四重五階の天守があった。
現在はことごとく破却されており遺構は少ない。二の丸に土塁と堀跡(本来は空堀であったと思われる)、西櫓台の石垣などがあるのみで、本丸跡には真田信吉が鋳造した城鐘をつる鐘楼が復元されている。
また、古城の域に残る平八石は、沼田平八郎景義の首をこの石の上に置いて昌幸が実検したと伝えられる。
(平成22年6月訪問 #56)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、戦国大名城郭事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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