歴史の勉強

若狭国  後瀬山城


現在の福井県西部、若狭の国の守護は、室町時代初期にはめまぐるしく入れ替わったが、貞治5年(1366年)に守護であった斯波高経が失脚すると、四職家の一である一色範光が守護となった。以後、一色氏が三代続いて守護職を継承する。
永享12年(1440年)に足利六代将軍義教の命を受けた安芸守護武田氏により、若狭守護一色義範が討たれ、若狭守護職は武田氏に与えられた。若狭武田氏の誕生であるが、この武田氏は信玄を生んだ甲斐武田氏の分流で、安芸の分郡守護を勤めていた。
さて将軍義教が一色討伐を命じたのは武田信栄であり、信栄の父信繁は安芸三郡の守護として安芸金山城にあった。ところが信栄は一色討伐を命じられた直後に急死し、弟の信賢が跡を継いだ。実質的には信賢が若狭武田氏の祖である。

信賢は丹後守護を兼ね、若狭国青井山に城館を築いた。この青井山が信賢-国信-元信の武田三代の居城となったが、重臣の叛乱などで領国は次第に不安定となった。
大永2年(1521年)に元信が没すると子の元光が継ぎ、翌大永3年に後瀬山に築城し、ここを居城とした。元光は細川高国に与して三好氏と合戦におよび敗北し、これがきっかけとなって国内で軍勢が蜂起したため、天文7年(1538年)隠居し、子の信豊に家督を譲った。
しかし守護職としての権威は失墜し、さらに家臣の離反もあり、永禄元年(1558年)に家督を子の義統に譲る。しかし武田家中はすでに分裂状態で、越前朝倉氏の侵入を受け、永禄6年(1563年)義統は失意のうちに没した。家督はわずか6歳の元明が継ぐが、朝倉氏に抗しきれず、元明は永禄11年(1568年)に朝倉氏に拉致され、事実上武田氏は滅ぼされた。
    

後瀬山全景
トンネルは国道27号線

主郭へ石段
石垣の一部が見える

主郭内の石垣
この後方に神社がある

若狭武田氏の居城後瀬山城は、標高168mの山頂に主郭を配する。後瀬山はJR小浜駅からも近く、その直下を国道27号線がトンネルで貫く。そのトンネルのすぐ脇に八幡神社という小さな神社があり、駐車スペースもある。その神社の横手から登城道を登る。
登城道はまさに登るという言葉通りで、かなり急な個所も多く、一部は苔などで滑りやすく注意がいる。小さな郭が連続している中を進んで行くようで、切通しや堀切、土塁などの遺構があるにはあるが、多くは自然崩壊しており、原形はほとんどとどめていない。城にまったく興味のない人なら、ハイキングコースを歩くようなものだ。
現在の登城道は東側になるが、このほかに麓にあったとされる居館(今の空印寺が居館跡だという)と主郭を結ぶ北側にも登城道があったそうで、その両道を139もの郭で守り、それらの郭を横につなぐ連絡路を設けるというのが基本の設計だったらしい。

主郭下まで来ると一気に見どころが増える。石垣の一部が残り、切通し状の主郭部への急坂があり、虎口を形成している。この坂を上ると主郭部である。主郭部は三段構えで、この部分が主郭の一段下にあたる二郭になる。ここから一郭へは急な石段があり、その脇に石垣が残る。
一郭内には土塁と石垣が残り、愛宕神社という小さな社が祀られている。この東側に三郭があり、一郭とのあいだには石垣から崩れたと思われる石が転がっている。この主郭部が麓から約30分の登りの終点で、後瀬山城最大の見所である。
若狭は武田氏が事実上滅んだ後、しばらくして侵略者であった朝倉氏も滅び、織田信長の支配下となって丹羽長秀に与えられた。さらに丹羽氏の後は浅野長吉、木下勝俊と続き、いずれも後瀬山を居城とした。慶長5年(1600年)の関ヶ原役後に若狭は京極高次に与えられ、高次は小浜に新城を築き、後瀬山城は廃された。
(平成22年10月訪問 #81)

参考文献:戦国大名城郭辞典(東京堂出版)、守護・戦国大名辞典(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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