歴史の勉強

三河国  西尾城

    

鍮石門

本丸への表門

丑寅櫓

一説に承久年間(1219~22年)に足利義氏によって築かれたといわれるから、かなり古い歴史を持つ城であるが、築城年や築城場所などがはっきりしているわけではなく、天正13年(1585年)以前の歴史については不詳であると言わざるを得ないようだ。
義氏の子の長氏が吉良氏を称し、西条城を居城としたが、この西条城というのが西尾の城だという。ただし、いつから西尾と称されるようになったかはわかっていない。
とはいえ歴史的、地理的にみてこの付近は吉良氏の本拠であり、中世期は長らく吉良氏の城であったことは間違いないだろう。

天正13年、この城は徳川家康の臣酒井重忠の城であり、この年に家康の命で大改修され、曲輪の拡張、堀や石垣の造成のほか櫓や天守が建てられたという。
すでに三河からは吉良氏や今川氏の勢力も駆逐され、家康の所領となっていたのである。この時建てられた天守は、本丸ではなく二の丸に建てられた。これが西尾城の最大の特徴になっている。
天守は三重三階で、二の丸北西隅に置かれ、東と南に多門櫓を備えていたという。なぜ天守が本丸ではなく二の丸に上げられたかはわかっていないが、早い時期から本丸よりも二の丸が城の中枢と位置付けられていたらしい。
御殿も二の丸にが設けられており、城の機能は二の丸に集中していた。一方、本丸には四隅に櫓が設けられ、北東隅にあった丑寅櫓が最大規模を誇っており、軍事上の最重要ポイントにあった。

城址は西尾歴史公園として整備され、二の丸大手にあたる鍮石門(ちゅうじゃくもん)が出迎えてくれる。平成8年に復元整備されたこの門は扉に真鍮をもちいたので鍮石門とよばれるらしい。
鍮石門を入った右手には丸馬出し状の堀跡が見つかっており、さらにその奥には旧近衛邸がある。江戸時代後期に左大臣であった近衛忠房の邸で、平成7年に移築保存されたものである。
水堀を土橋で渡り本丸域に入ると、表門後の石垣が残る。そこから細い階段を上がると復元された丑寅櫓の入口となる。この丑寅櫓も平成8年に復元されたものである。

本丸域の南東には姫の丸跡があり、現在そこには西尾市資料館が建てられている。このほか現在の西尾小学校は城の東の丸跡に建ち、さらに二の丸の北側には北の丸、北の丸と東の丸を包み込むように三の丸があった。
北の丸や三の丸は市街地となっているが、これらの城域は田中吉政時代に拡張されたものだという。 周知のとおり天正18年(1590年)に家康は関東に移封され、東海道筋には軒並み豊臣系大名が居並んだ。
吉政もその一人であり、岡崎城主となった。西尾はその支城とされたが、吉政は家康に備える意味もあり城を拡張整備したようだ。

慶長5年(1600年)の関ヶ原役で、この地域の大名配置は一変し、西尾は本多康俊に与えられた。以後は譜代大名が頻繁に入れ替わる。すなわち大給松平成重、本多俊次(先の康俊の子)と城主が変わり、天領時代を経て寛永15年(1638年)に太田資宗が3万5千石で入封した。
正保元年(1644年)に資宗が浜松に移されると再び天領となるが、翌正保2年に井伊直好が3万5千石で入封する。直好は井伊直政の孫にあたり、彦根藩井伊家の分家筋であった。
太田資宗の代から再び城は改築され城下町も整備され始め、直好の代に完成した。その直好も万治2年(1659年)に掛川に移される。後には増山正利が2万石で入り2代続く。増山氏は姉が四代将軍家綱の生母であったことで大名に取り立てられた家である。
増山氏二代の正弥は寛文3年(1673年)に常陸下館に移り、土井氏四代、三浦氏二代と続き、明和元年(1764年)に大給松平乗祐が6万石で入りようやく安定を見る。松平氏が五代にわたって城主を継承し明治を迎えた。
(平成25年8月訪問 #117)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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