歴史の勉強

伊豆国  韮山城


平成の大合併により、伊豆の国市となった旧韮山町韮山韮山にある、北条早雲の拠点となった城が韮山城だ。
地名に韮山韮山と同じ文字が被るのは、この地が中心地であったことの名残だろうが、肝心の韮山町が伊豆の国などという、わけのわからない名になってしまったのは残念だ。
さて韮山城だが、この城は文明年間(1469~86年)に堀越公方足利政知の家臣外山豊後守が築いたとされる。文明は応仁の次の年号だから、世は乱世に突入していた。
本来鎌倉にあって関東を統べるはずの鎌倉公方政知ですら、享徳の乱後の混乱や関東管領上杉氏の内紛で鎌倉にするたどり着けず、手前の伊豆堀越に留まったことから堀越公方とよばれたのだから、乱世の象徴のひとつだ。

堀越御所は伊豆箱根鉄道を挟んで、韮山城の西側にあったというから、御所を守る砦のひとつ程度の規模のものだったのだろう。
延徳3年(1491年)に政知は病没したが、その後は後継を巡ってお定まりの内紛が発生する。政知の長男茶々丸は素行不良で廃嫡され土牢に監禁されていたが、脱獄して義母や後継の公方の義弟潤童子を殺害して、自ら公方を称した。
しかし奸臣を信じ、重心を誅したために支持を失い、将軍義澄からは反逆者とされて追討されることとなった。
興国寺城主伊勢宗瑞はこの機に乗じて伊豆に侵攻して茶々丸を滅ぼし、さらに近隣を切り従えて伊豆国を奪取した。
伊勢宗瑞すなわち北条早雲である。もっとも最近の研究では、宗瑞の茶々丸討伐は幕命によるものであるとされている。

いずれにせよ、宗瑞の伊豆討入りはひとつの画期とされ、これによって戦国期が始まったとされるほどだ。下剋上の典型でもあった。
宗瑞は出家し、同時にこの地の名族北条氏の名乗り北条早雲(後北条氏)となった。この早雲が伊豆の居城としたのが韮山城である。
早雲は韮山城を拠点に伊豆を経略し、後北条氏の拠点となった小田原には移ることはなく、韮山で死去した。また韮山は後北条氏の西の守りでもあり、後北条氏の重要拠点となった。
周知の通り後北条氏は戦略の誤りから豊臣秀吉に滅ぼされるが、秀吉侵攻時の韮山城主は北条氏康の四男氏規であった。

重要拠点とはいえ、さして規模の大きくないこの城を秀吉は、4万4千の軍勢で囲んだとされる。対する城兵は3千6百とされる。
氏規は籠城し、100日持ちこたえたがついに開城した。天正18年(1590年)のことである。
その後、伊豆の支配者となった徳川家康は内藤信成に韮山城を与えたが、慶長6年(1601年)に転封され、伊豆は天領となって韮山城は廃城となった。
    

城池から韮山城遠望

三郭への堀底の道

二郭から主郭への土橋

砦があった天ヶ岳

韮山城は、丘陵を利用した典型的な平山城で、平城の周囲を水堀で囲んでいた。現在、城池と呼ばれる部分が残るのみとなっており、早雲の居館があった御座敷は韮山高校の敷地になっている。
韮山高校と城池の間が丘陵部で、城池側から昇ると三郭に達する。ここも大半が韮山高校のテニスコートになっている。さして広くはないが、土塁も残る。
ここから南に向うと権現曲輪、さらに二郭となるが、いずれも広さはない。権現曲輪には熊野神社があり、土塁もの残る。権現曲輪には韮山城の鎮守であった熊野神社が今でも残るが、熊野権現も早雲が勧請したとされる。

二郭から主郭へは空堀が設けられ、土橋が架かる。土橋を越した先の丘陵最高所が主郭であるが、ここもさして広さはない。
全体として小規模、脆弱な印象で、3千6百が百日も籠城できるような城とは思えない。
もっとも韮山城の南方には天ヶ岳砦を中心に、江川砦、和田島砦、土手和田砦などの砦群が控えており、さらにこの付近は湿地帯であることなどから、戦術的に秀吉は無理攻めしなかったのかもしれない。
なお、韮山城は江戸期の韮山代官を勤めた江川家の所有で、城地を挟んで東側に江川邸がある。また近くには頼朝流刑地とされる蛭ヶ小島があり、公園として整備されている。
(平成25年9月訪問 #89)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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