歴史の勉強

山城国  二条城

国宝二の丸御殿遠侍


現在の位置に徳川家康が二条城の築城を開始したのは、慶長7年(1602年)のことである。関ヶ原役の2年後のことであり、実質的に天下人であった家康の命により、城は諸大名を動員した天下普請によって築かれた。
翌慶長8年2月12日に家康は征夷大将軍に補せられて、名実ともに天下人となるのであるが、二条城の築城はこの家康の将軍宣下を見込んで行われたものであった。

二条は御所のある一条通りの南にあり、南北朝期には後醍醐天皇の花山院御所に対抗して足利尊氏は二条高倉に幕府を開いた。
足利二代将軍義詮は三条坊門に幕府を移し、三代義満は室町通りに幕府を移す。これがいわゆる花の御所で、こののち十五代義昭まで室町通りに沿って幕府が置かれた。これが室町幕府の名の由来するところである。
最後の足利将軍十五代義昭は、織田信長によって京に据えられ、最初本国寺を幕府とし、その後斯波氏の屋敷跡に室町第を造営した。丸太町通りと出水通りの間である。これが旧二条城ともいわれるもので、地下鉄工事の際には石垣や堀が発掘された。
やがて信長は義昭を追放し、ここの足利幕府は滅び、二条城も破却された。信長は二条室町に新たに二条城を築き、誠仁親王に献じた。これが二条新造であったが、本能寺の変の際に焼失した。
次いで豊臣秀吉は有名な聚楽第を京都の営んだ。その位置は中立売智恵光院付近というから、現在の二条城から丸太町通りを挟んだ北側にあたる。

そして秀吉の死後、関ヶ原役で勝利した家康は、将軍宣下の拝賀の儀式の場として、新たに二条築城を行ったのであった。
このときの二条城は現在の二の丸を中心とする部分で、ここに勅使を迎えて将軍宣下を受け、徳川政権が誕生した。それから暫くは二条城は政治上重要な役割を果たす。
家康と豊臣秀頼の会見の舞台となり、大坂の陣では本営となり、禁中並公家諸法度の発布の場となった。その節目ごとに徳川政権はより強固になっていった。

元和6年(1620年)二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)が、後水尾天皇の後宮に入内するが、二条城は和子の宿舎となった。幕府による公武宥和政策の一環であった。
そして寛永3年(1626年)9月、後水尾天皇の行幸を迎えることになる。このときに二条城は大改修された。ときは既に三代将軍家光の代で、家光は2年前の寛永元年(1624年)に尾張家、紀伊家をはじめ井伊家、本多家など親藩、譜代大名の総力を結集して普請を行った。
現在の本丸は、この寛永期の改修の際に拡張されたものである。天皇の行幸を迎えた最初の城は秀吉の聚楽第であり、次が二条城であった。こののち行幸を迎える城はないから、現在までで二城だけである。
天皇は5日間城内で過ごし、現在の二の丸庭園に行幸御殿が造営された。天皇は滞在の間、本丸の天守閣に三度登られて京都市内の眺望を楽しんだとされる。
この天皇行幸が二条城の最盛であった。こののち二条城の政治的な意義は薄れ、幕末まで城番が守るだけの状況が続く。

幕末、二条城は再び政治の舞台に登場する。文久3年(1863年)に十四代将軍家茂が、和宮降嫁の謝意を述べるとともに攘夷決行を上奏する目的で上洛し、二条城に入った。
これにあわせて城は再び整備されたが、もはや幕府には威厳なく、叛旗を翻した長州藩を征伐する力もなかった。家茂は第二次長州征伐の苦戦の中で死去し、慶長2年(1866年)に最後の将軍に慶喜が就いた。
慶喜は将軍就任と同時に二条城の主となったが、翌慶応3年(1867年)10月13日に、二条城大広間に諸藩の重臣を集めて大政奉還を宣言する。
同年12月9日に王政復古の大号令が発せられ、慶喜は二条城を出て大坂城に移る。それはまた、家康が将軍に補されて以来の将軍の城の終焉でもあった。
二条城は朝廷に接収されて、京都府庁が置かれたあと、明治17年(1884年)に宮内省所管の二条離宮となり、昭和14年(1939年)に京都市に下賜された。平成6年(1994年)には世界文化遺産に登録されている。


東大手門

番所

北大手門

西門

二条城は東西500m、南北400mの規模の回字形をした平城で、その正門にあたるのが東大手門である。13間の幅を持つ巨大な櫓門で、連子窓の下は石落としになっている。
この門が正門となったのは参内の利便性を考慮したためといわれ、後水尾天皇の行幸の際には、格式高い薬医門に改造され、寛文2年(1662年)に再び築城時の櫓門に戻されている。現在の二条城への入口も東大手門で、そこを入ると右手に番所が置かれている。
北大手門は東大手門に準ずる扱いであるが、東大手門に比べて二階の渡櫓部分は一回り小さい。埋門形式の西門は搦手口であり、有事の際に切り落とせるように堀にかかる橋は木橋であった。西門内は枡形虎口を形成している。

  

二の丸御殿唐門

二の丸御殿大広間外観

北中仕切門

二の丸御殿と台所(非公開)は城郭殿舎建築が、ほぼ完全な形で今日まで残り、国宝に指定されている。その二の丸の正門が唐門で、多くの彫刻と飾り金具で装われている。
二の丸御殿は雁行形に遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院が配される。遠侍は二の丸御殿最大の建物で、大入母屋屋根と極彩色で装飾された檜皮葺の玄関車寄を持つ。遠侍は諸大名控えの間と勅使の間からなる。
式台は老中が詰め諸大名との面談が行われた場所であり、大広間は将軍と諸大名の対面の場である。黒書院は将軍の内向きの応接間であり政務の場所であり、白書院は居間や寝所など私的な場所であった。大広間と黒書院を繋ぐ板敷きの大廊下が蘇鉄の間である。
中央の写真の左側入母屋屋根が大広間で、その右が式台である。大広間は大政奉還が宣せられたところである。
二の丸にはこのほか庭園と台所がある。庭園は御殿の南西側に広がり、後水尾天皇の行幸御殿は庭園の南側に建てられた。また北東側には御清所、台所、土蔵があるがいずれも非公開である。二の丸御殿は常時公開されており、御殿内各部屋の狩野派による障壁画も見事である。
また二の丸西側の南北2ヶ所には喰違虎口となる石塁が配され、それぞれに南北の中仕切門が設けられて、防御機能を高めている。北中仕切門のやや右側には、家康造営の五層天守があった。


桃山門

鳴子門

本丸東櫓門

本丸御殿

本丸西虎口より天守台

天守台より本丸西虎口

本丸は寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸の為に、三代将軍家光が造営した城域である。五層の天守や四棟の御殿、櫓などがいずれも伏見城から移築したとされ、それまで二の丸域にあった家康時代の天守は淀城に移された。
本丸は内堀に囲まれており、二の丸との間の内堀南側に桃山門、同じく北側に鳴子門を設けて、本丸東櫓門への通行を規制している。桃山門は7間幅の長屋門、鳴子門はその半分程度の大きさの薬医門である。
天守、本丸御殿と二の丸御殿、行幸御殿は多門長屋、多門廊下、橋長屋で結ばれていた。つまり本丸の周囲は多門長屋が一周し、本丸と二の丸の間の橋は二階建ての廊下橋(橋長屋)であった。したがって本丸東櫓門の2階は、橋長屋と多門長屋を結ぶ中継点であった。これは天皇が姿を見られずに、二の丸から本丸へ渡れるようにするためであった。また本丸西虎口は出枡形となっており、枡形内部には雁木が残っている。
本丸内の天守と御殿は、落雷や大火でいずれも焼失し、現在の本丸御殿は明治26年(1893年)に御所内の桂宮邸の一部を移築したもので、春と秋に特別公開される。


二の丸西南隅櫓

二の丸東南隅櫓

家光の本丸造営後の二条城には、天守のほかに本丸に三重櫓が一基と二重櫓が二基、二の丸には二重櫓が五基あったという。
そのうち二の丸の西南隅櫓と東南隅櫓が現存する。両櫓には石落しがあるが、これは幕末の改造で、見せかけの飾りに過ぎない。
西南隅櫓は東南隅櫓に比べて1間四方小さいほかは、唐破風が異なるくらいである。両櫓とも伏見城からの移築であると思われ、内部はいずれも非公開である。
(平成21年8月訪問 #40)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・二条城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、元離宮二条城(京都新聞出版センター)、元離宮二条城・本丸御殿(京都市観光協会)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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