歴史の勉強

陸奥国  二本松城

二階櫓,箕輪門,多門櫓

    

箕輪門

本丸下石垣

本丸石垣

搦手門跡

霞がよく発生することから霞ヶ城の別称をもつ二本松城は、標高350mの白旗ヶ峰全体を城域とする。東北本線二本松駅からも東北道二本松ICからもさして離れていない。
この二本松城を訪れたのは平成20年9月27日。翌週10月1日からはじまる「二本松菊人形」の準備が始まっていた。この菊人形は有名で、霞ヶ城公園内が会場となるため、石垣にも大きく菊人形も文字が取り付けられていた。駐車場に車を停め、箕輪門に向うが、その手前には二本松少年隊の群像が築かれている。
幕末、二本松藩は幕府側に立って官軍と戦ったが、藩は財政破綻状態で戦費など一銭もなく、城内の武器庫より関ヶ原当時の武器を引っ張り出して出兵した。
洋式装備の官軍に敵うわけがなく、二本松藩は各地で負け官軍が二本松に迫った頃には、城下には兵はことごとくいなくなり、元服前の少年隊が編成され官軍にあたった。
少年隊は一人一刺を実行し、その全員が討たれた。この結果官軍は作戦変更まで余儀なくされた。その少年隊の人数は30名前後というだけで、正確にはわかっていない。
この少年隊の悲劇を想い建立されたのがこの群像で、この像が建つ場所が千人溜といわれる藩兵の集合場所である。

二本松城は南の山麓に御殿などの居館があったが、その正門にあたるのが箕輪門である。箕輪門は二重櫓や多門櫓ととも昭和57年に復興された。驚くほど壮麗な枡形だが、江戸期の絵図には二重櫓は描かれておらず、また門や多門櫓もこれほど壮麗なものではなかったようだ。
箕輪門を入ったところが二の丸で、石垣もところどころに見られる。この二の丸広場が菊人形展の会場である。二の丸から山頂に向う。
江戸中期の大名茶屋洗心亭、樹齢300年といわれる赤マツの巨木傘マツ、前の郭跡などを過ぎると、堀切が見えて中世城郭らしい雰囲気となる。
やがて本丸下の石垣に出るが、ここは城内でもっとも古い石垣とされ、慶長年間の初期に二本松が会津の蒲生氏郷の支配下にあったころに、氏郷に召抱えられた穴太衆(あのうしゅう)という技術者集団によって築かれたものだそうだ。

山頂部の本丸には天守台、櫓が復元されている。平成3年の発掘調査や絵図をもとにして復元されたもので、石垣も大部分は復元だが、南面の一部は遺構の石垣である。
南側に下ると搦手口で、慶長初期ごろに門が建てられたといわれ、門柱の礎石と石垣が残る。ここからさらに下ると新城舘(しんじょうたて)という広場に出る。
ここは中世期から近世初期に何度も建物が建てられた場所で、中世期の畠山氏の時代には本城的な役割を果たしていた場所であったらしい。そして、ここには二本松少年隊の顕彰碑が建てられている。

二本松城は、源氏の名門畠山氏の孫畠山満泰により嘉吉年間(1441~44年)に築かれた。畠山氏は南北朝期に畠山国氏が奥州探題となり多賀国府(宮城県多賀城市)に赴任したが、同じく奥州探題であった吉良氏との争いに敗れて国氏は自刃、その子の国詮が二本松に逃れた。
二本松に住した国詮は、子らを領内各地に配置し勢力の拡大を図る。国詮の跡を継いだ満泰の代からは畠山に替えて二本松氏を名乗り、完全に地方大名化し、城を築いたのもこのころであった。
しかし周囲に伊達氏、結城氏など有力な大名に囲まれて、二本松畠山氏の版図は広がらなかった。その後の畠山氏の系図は戦国期の義国まで諸説あるが、二本松周辺で一定の勢力を保っていた。
畠山氏は150年ほど二本松を居城としていたが、伊達氏と対立して天正14年(1586年)畠山義綱は伊達政宗に二本松城を奪われて会津の葦名氏を頼って逃げ、畠山時代は終わった。

伊達領となった二本松には城代として伊達一門の伊達成実が入るが、豊臣秀吉による奥州仕置の結果会津に入部した蒲生氏郷の支城となった。
氏郷は二本松を重視し、蒲生郷成・町野左近助ら重臣を配した。氏郷は秀吉の大の気に入りであったが、文禄4年(1595年)2月に40歳の若さで没した。
蒲生家は宇都宮に減転封となり、代って上杉景勝が会津に入る。関ヶ原役で西軍に与した景勝は戦後米沢に減転封され、代って蒲生秀行が入る。
蒲生家は秀行-忠郷-忠知と継いで、忠知のときに伊予松山に転封、入替わりに松山から加藤嘉明が会津に入った。加藤家は嘉明死去後跡を継いだ明成が重臣と争い騒動を起こして改易となる。畠山氏の滅亡後、二本松は加藤氏の改易までずっと会津の支城とされた。

加藤氏改易の跡は白河から丹羽光重が10万石で入る。丹羽氏は柴田勝家とともに織田信長の重臣だった丹羽長秀を祖とする家で、秀吉の台頭で鳴かず飛ばずとなり、さらに関ヶ原役で西軍に与したために領地は全て没収された。長秀の子の長重の代のことである。
長重はその後涙ぐましい謹慎生活をしている。最初は京都柴野大徳寺で、その後は鳥羽でひたすら恭順の意を示し、慶長8年(1603年)11月将軍秀忠の取り成しもあって許され、常陸古渡に1万石を新たに与えられた。
大坂の陣で戦功を挙げて、その後も幾度か加増され、常陸江戸崎、陸奥棚倉、陸奥白河と移り10万石となり、長重の子の光重の代に二本松に転封となった。
丹羽氏にはかなりの財産の蓄積があったようで、長重のときに棚倉に移る際もその財産を積んだ馬が長蛇をなし数千駄に及び、そのために丹羽氏が越えた峠は千駄櫃峠と呼ばれるようになったともいう。
このために幕府は棚倉、白河と新任地で丹羽氏に築城を命じた。もちろん丹羽氏の財力を減じさせるためであった。

二本松入封後も例外ではなく、幕府は二本松城(霞ヶ城)の築城を命じた。丹羽氏はまた城作りに精を出さなければならなかった。
このときに城は大改修され、山内の町屋を山外に移し、東側に堀を掘削し、5つの門(東側の竹田門、南側の池ノ入門と久保丁門、西側の松坂門、北側の搦手門)で郭内と郭外を区切り、郭内は城主と家臣の専用とした。
改修には10年かかり、さすがに丹羽氏が長年にわたって蓄えた財宝も底をつき、二本松城には土居や板張も多かったという。
丹羽氏は近世二本松城を築いたが、入封時には既に財政難に見舞われていたのである。丹羽氏は明治まで二本松を領するが、財政難は常態化し、それが幕末の少年隊の悲劇に繋がったといっても過言ではない。
(平成20年9月訪問 #25)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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