歴史の勉強

能登国  七尾城


能登畠山氏が七尾に本格的な城を築いたのは、畠山義総の頃といわれている。能登畠山氏初代満慶の頃には砦のようなものに過ぎなかったらしいが、その後応仁の乱や一向一揆など戦乱の波が徐々に寄せるに従って、徐々に強固になっていったようである。
能登守護であった畠山氏だが、応仁の乱までは他の守護同様京に住していた。その畠山氏が能登に入るのは、応仁の乱が終結したのち、三代義統の時である。
畠山氏は能登に入国すると、七尾の海岸近くに守護所を置いて統治したらしいが、戦国の世が本格化するに従って城をより強固にする必要に迫られ、七代義総が七尾城を改築強化したとされる。

七尾城は標高300mほどの通称城山の尾根筋にいくつもの曲輪を配した大規模な山城で、別名を松尾城または末尾城という。七尾の名の起こりは菊、亀、虎、松、梅、竹、龍の七つの尾根があったことからきているが、この城がそのうちの松の尾根に築かれたことが松(末)尾城の由来とされる。
月山富田城(出雲)、春日山城(越後)、観音寺城(近江)、八王子城(武蔵)とともに日本五大山城とされるほど強固な城で、天正5年(1577年)に上杉謙信が包囲したが落すことができなかったほどだ。
城は結局、若年の当主をめぐる重臣間の内紛によって内部から自壊して落城した。その後、織田信長が能登を領すると前田利家が入ったが、すでに山城の時代ではなくなっていて、利家の子の利政が小丸山城を築いて移り、天正17年(1589年)には廃城となった。


七尾城史資料館

石垣崩落現場

平成20年8月9日に七尾城の麓にある七尾城史資料館脇駐車場に車を置く。まずは資料館見学。ところが豪雨で城の石垣が崩れて工事中とのこと。一部を除いて見学は出来ると聞いてひとまず安心。
資料館の裏手から大手道を徒歩で登るのと、本丸下の駐車場まで車で行って中心部のみ見るのと2つのコースがあって、前者は約3時間、後者は1時間程度とのこと。
このとき時刻は3時半、時間の関係と主に暑さからくる体力的な問題から後者を選択。資料館を後に山道を登る。車で登っても坂は結構きつく、正解と内心でニンマリする。
この道路は県道城山線といって本丸下駐車場が終点(正式には起点)だから、県道マニアである筆者には一石二鳥でもある。だけど、道幅は狭くなれないとすれ違いにも苦労するからご注意のほど…
    

長屋敷跡

桜馬場下

桜馬場下石垣

桜馬場跡

温井屋敷跡

九尺石

二の丸跡

本丸跡

駐車場前には七尾城址の復元イラストがあって、その後ろが長屋敷の一部。そこから本丸方面に歩くが、重機が入っているために足元には鉄板が敷いてある。
見上げれば崩れた個所が見えるが、ほかにも数箇所崩落があるらしく、工事個所はかなり広範囲に及んでいた。
武具を整えた場所であった調度丸跡を経て桜馬場下に。ここには七尾城址の説明板があって、有名な石垣が積まれている。この石垣の上が桜馬場である。
石垣で有名な七尾城の圧巻の石垣がここで、七尾城を紹介する写真の多くがここから石垣を写したものだ。が、工事のために重機や鉄板があり、木の階段も取り払われていた。

重機の脇を通って調度丸と石垣の間を抜ける。急斜面を石垣で補強した苦心の石積みで、その甲斐あって崩れずに残っている。
桜馬場脇に出てここから本丸まで石垣の間を階段で登るのだが、工事のために通れずに桜馬場の裏手から迂回することになる。
本来の通路を行けば途中に重心の遊佐氏の屋敷跡があるのだが、工事のため立入禁止ではそれも見れない。馬の訓練場所である東西45m、南北25mの規模であったという桜馬場跡を見て、二の丸方面に向かう。

二の丸の手前に重臣温井氏の屋敷跡があり、そのそばに城の鎮護の要石であった九尺石がある。温井屋敷跡を過ぎると二の丸、さらに堀切を経て七尾城最大の曲輪である三の丸がある。
再び桜馬場に戻って迂回路を使って本丸跡へ。本丸跡には畠山氏の末裔が建立した七尾城址と記された石碑と城山神社があり、七尾市街地が一望できる。
大手道を登って見たくもあり、城めぐり初心者のために予習不足の上にポイントの掴み方もまだまだの頃でもあったし、何よりも工事が入って見学が制限されていたこともあって、ぜひとも再訪したい城である。
(平成20年8月訪問 #15)

参考文献:七尾城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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