歴史の勉強

上野国  名胡桃城

    

写真1:城跡入口、入ったところが三の丸

写真2:三の丸とニの丸の間の空堀

写真3:二の丸と本丸の間の空堀

写真4:本丸跡、石碑の背後に笹曲輪がある

名胡桃城は利根川の上流にある小城で、この地方の要衝沼田城の支城のひとつであった。沼田景久の三男景冬によって築かれ、景冬は名胡桃氏を名乗ったとされる。
その後、沼田氏の衰退によって真田昌幸が沼田城主となると、名胡桃には鈴木主水を置いて守らせた。その位置は沼田城から直線で5kmほどで、沼田からは利根川を遡ることになる。この小城がなぜ有名になったかというと…
沼田は交通の要衝であり、戦国期には越後の上杉、甲斐の武田、小田原の後北条各氏が入り乱れての争奪をした。この三氏はあるときは同盟し、あるときは敵対したから、沼田の帰属は頻繁に変わった。
武田氏滅亡後は上杉、後北条、徳川の三氏の争奪の場となったが、徳川と後北条の盟約により後北条の勢力圏と定められた。

沼田城主真田昌幸はこれに反発し上杉と結んであくまで死守の姿勢を示す。ちなみに真田昌幸は武田の将として沼田を攻略し、武田氏滅亡後は織田、さらに徳川に臣従していた。
昌幸は早くに秀吉にも接近して豊臣大名ともなっていた。そうこうするうちに天下の統一を目指す秀吉の関東進出がはじまる。
秀吉は当初後北条氏を懐柔すべく画策し、沼田帰属問題を裁定した。その結果、沼田城と沼田領の三分の二は後北条氏に、名胡桃城と残り三分の一が真田氏へ帰属することになった。
このとき昌幸は名胡桃は父祖の墳墓の地と主張しているが、まったくのウソである。これによって沼田から見ると名胡桃は
目の上のコブのようになった。

昌幸は名胡桃城を改修したが、北条氏政は名胡桃が反攻拠点になることを恐れて、秀吉の裁定を無視し名胡桃城を攻撃する。
このことが秀吉の小田原征伐のきっかけとなり、天正18年(1590年)に後北条氏は滅亡するのであるが、城は北条の沼田城代猪俣邦憲によって攻略され、北条方のものとなる。
後北条氏は秀吉軍の侵攻に備えて、時間的制約のある中で急ごしらえで防備を強化した。だが碓氷峠から関東に侵入した秀吉軍は名胡桃や沼田には見向きもせずに、北条の本拠小田原を指向した。
北条氏滅亡後は沼田は再び真田氏のものとなり、重要性の薄れた名胡桃城は廃城となった。まさに大国の戦略に翻弄された城であった。

城は国道17号線に沿ってあり、国道沿いに幟や看板や碑などがあるのですぐにわかる。般若曲輪が駐車場で、砂利敷きの空間であるが、かなり広くかつては居館があったとされる。
国道を挟んで反対側には外曲輪の空堀が残る。国道を少し沼田方面に戻ったところに幟や看板が建ち、そこが城跡の入口である。
すぐ左側の窪みに簡易トイレがポツンと置かれているが、このトイレが置かれているところが三の丸の外側の空堀である。三の丸を経て二の丸に入るが、三の丸と二の丸の間も空堀が残る。発掘調査によれば、この堀には木橋が架かっていたそうである。
名胡桃城は本丸域が狭く、実体的には二の丸が主郭とされていたらしい。二の丸から本丸の間にも大規模な空堀が見られる。ここにも木橋が架かっていたそうだ。
本丸は思いのほか狭く石碑が建ち、石碑の背後には笹曲輪跡があり土塁も残る。笹曲輪からは城下がよく見渡せ、この城が断丘上に築かれた城であることがよくわかる。
遺構自体はほとんど失われているが、城跡は地元の方の努力によってよく整備されており、無人ながらパンフレットも置かれている。大規模な空堀を見るだけでも、行く価値がある城である。
(平成22年6月訪問 #57)

参考文献:戦国の堅城Ⅱ(学研)、戦国大名城郭事典(東京堂出版)、名胡桃城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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