歴史の勉強

尾張国  名古屋城

大天守


「名高き金の鯱は、名古屋の城の光なり・・・」と明治初年に鉄道唱歌に歌われたように、大天守の金鯱は昭和20年(1945年)5月14日、米軍機の空襲で焼け落ちるまで名古屋城のシンボルとして親しまれていた。
この金鯱は慶長17年(1612年)に天守の竣工と同時に上げられ、純金換算で266.6㎏といわれ、城から一里も離れた東海道からも、その輝きが見えたという。
当初は20金という純度の高いものだったが、時代が下ると尾張藩では鯱を下して純度の低いものと取り替え、藩財政の一助とした。さらに鳥よけのために金網をかぶせられ、明治と昭和になって盗難にもあっている。
もっとも盗人はすぐに捕まり事なきを得ている。そして空襲である。鯱は防火のまじないとされるが、米軍機には無力であった。というより鯱の取り外しのために組まれていた足場が、火災を大きくしたともいわれる。何とも皮肉な話である。

名古屋はもともと那古野といわれ、大永年間(1521~28年)には駿河の戦国大名今川氏により城が築かれたという。その後、織田信長の父信秀により奪取され織田氏の城となった。そのころの那古野城は現在の名古屋城の二の丸あたりにあった。
信長はこの那古野城で天正3年(1534年)に生まれているが、そのころの尾張の中心は清洲であった。信長も清洲を本拠とし、那古野はやがて廃城とされてしまう。城というより砦のようなものであったのだろう。
信長の死後は二男信雄が終わりを治めたが、信雄も清洲を本拠とし、清洲城は福島正則に受け継がれていく。慶長5年(1600年)の関ヶ原役で徳川家康が勝利すると、尾張清洲には家康四男の松平忠吉が入った。

家康は尾張を要衝と考えており、忠吉が慶長12年(1607年)に病没すると、九男義直を清洲城主とした。義直は3歳であったが、御三家筆頭尾張徳川家は、この義直をもって初代とされ以後明治維新まで16代にわたって続く。
当時はまだ大坂に豊臣秀頼がおり、家康は対大坂戦略を考えなければならなかった。そこで尾張に自身の子を起き、さらに大坂城を凌ぐ城を築くことにした。天下の主は徳川家であることを示すという、政治的な理由であった。
そのためには狭く、水利も悪い清洲は不適当で、家康が目を付けたのが那古野だった。慶長15年(1610年)に主に西国の諸大名を動員しての天下普請で名古屋城の築城が開始された。

大坂城を凌ぐのが目的だから、その天守は当時日本最大で、大坂城天守の倍をはるかに超える。その天守がある本丸は南と東に巨大な馬出を置き、北西に御深井丸、南西に西の丸、北東に御塩蔵構と周囲を廓で囲んだ。
本丸の南東部には広大な二の丸が広がり、本丸と二の丸は石垣造りとされた。さらにその南方には土塁造りの三の丸が築かれた。豊臣家が滅びた元和元年(1615年)には本丸御殿が完成し、三の丸の外側の総構の工事中だった。
しかし豊臣に備える必要がなくなったことで総構の工事は中止され、いくつかの櫓も未完成のままとされた。名古屋城に入った義直は、元和6年(1620年)に二の丸御殿に移り、これ以後二の丸が城の中心になった。

本丸御殿は将軍来城の際の宿舎とされ、寛永3年(1626年)の二代将軍秀忠の上洛や寛永11年(1634年)の三代将軍家光の上洛時に使われているが、普段は閉切られて使われなかった。
この本丸御殿も昭和まで残っていたが、空襲で焼失してしまった。戦争は人だけでなく、文化も歴史も破壊してしまう。その後、昭和34年(1658年)に天守は再建され、金鯱も再現された。
また本丸御殿は平成21年(2009年)から復元工事が開始され、平成25年に玄関と表書院、平成28年に対面所と下御膳所と段階的に公開され、平成30年に全体が完成予定とされている。


東鉄門付近内堀

東鉄門跡

本丸北側水堀

清洲櫓

鵜の首

巾下門跡

榎多門

二の丸大手二の門

南側空堀

名古屋城には何度か足を運んだが、一番便利なのは地下鉄名城線の市役所前駅である。駅の出口のすぐ先が東鉄門跡の枡形で、その手前にある空堀にも圧倒される。枡形を抜けると券売所があって、ここで入場料を払うことになるが、その前に名古屋城を一周してみよう。
東側を北に沿って進むと、やがて左側に水堀が見える。ここから城の北側を水堀に沿って進むと、手前から二の丸、本丸、御深井丸とクランク状に配置され、天守もよく見える。北側はもともとが湿地帯だったらしく、天然の要害をなしていた。
御深井丸の西北には清洲櫓がある。その名の通り清洲城の天守あるいは小天守を移築したものと伝えられる、三層三階の櫓である。内部は非公開だが、望楼型の天守建築手法によって建てられているそうだ。

清洲櫓は乾櫓、西北櫓とも呼ばれるように城の西北にあり、ここからは城の西側を南に進む。西側の堀も水堀で幅が広い。御深井丸と西の丸の間は防御のために天守近くまで堀が切りこまれており、鵜の首と呼ばれている。
さらに西の丸を見ながら南下し城の南側に出ると巾下門跡がある。巾下門は三の丸の西側の門で、埋門であった。ここから城の南側を進むが、すぐに正門である榎多門がある。東鉄門とともにここにも券売所がある。
この先空堀を見つつ南側を進むと、高麗門である二の丸大手二の門が現存する。かつては枡形であったが、現在では二の門だけが残り西鉄門とも称される。その先の馬場跡には大相撲が行われる愛知県体育館があり、東鉄門に戻る。ここまで約1時間ほどの散歩だ。

  

南蛮たたき塀

巽櫓

坤櫓

小天守

不明門

本丸御殿玄関

本丸御殿表書院一之間

東側の券売所からいよいよ城内に入る。入ったところが二の丸の北側で、先に書いたようにここが名古屋城の心臓部であり、尾張藩の政庁があったところだ。かつては広大な二の丸御殿が建っていた。
現在では埋もれていた東庭園が発掘されているほか、北側に庭園が残る。さらに最北部に鉄砲挟間をもつ南蛮たたき塀が残っている。
二の丸から本丸に向かうが、本丸の東南と西南には2つの櫓が現存する。東南櫓は巽櫓、西南櫓は坤櫓で、両櫓とも二層三階で、巽櫓は一層目の破風が切妻、坤櫓は千鳥破風と唐破風を重ねている。

2つの現存櫓の間にある表二の門を入ると本丸になる。この表二の門は総鉄板張りだが、工事のために支柱が入っていて残念。ここには本丸御殿が残っていたが、戦災で焼失してしまった。
今その本丸御殿の復元工事が段階的に行われており、工事が終わった部分は見学できる。その本丸御殿を回り込むように進むと大小の天守が現れる。鉄筋コンクリート製だが、往時に近い姿で復元されている。
大天守に入るには小天守に入り、橋台を渡る仕組みになっている。大天守は五層五階、天守台石垣の中に地階蛾が設けられていた。一方小天守の方は二層二階で、やはり地階があった。

小天守の石垣に設けられた地階入口から入り、U字型に進んで橋台を通り大天守の地階に入る。大天守の一階部分は南北37m、東西32.8m、高さは36.1m、石垣を含めた高さは55.6mという巨大さだ。
これだけ大きいと上層階からの雨だれが下層の屋根に被害を与えてしまうために、大きな雨樋を設け、雨樋は天守台の石垣を伝わって堀の底まで達していた。石垣を這う緑の線が雨樋である。
そして大天守には、再建時に復元された金鯱が上がっている。天守の北側からは不明門を経て御深井丸に入る。ここは本丸の防御のために沼地を埋め立てて造成した廓である。

また本丸の東側には加藤清正が運んだと伝承される巨石清正石があるが、清正云々は誤伝である。清正石のある枡形門は東二の門で、そこを抜けたところが本丸の搦手馬出となる。
また本丸御殿は玄関(一之間、二之間)、表書院(上段之間、一之間、二之間、三之間)、対面所(上段之間、次之間、納戸一之間、納戸二之間)、下御膳所が公開中で、模写ではあるが往時の見事な障壁画が堪能できる。
本丸御殿は引き続き工事中であるが、名古屋城は天守の老朽化が叫ばれており、特に耐震性の問題から建て替えが議論されている。財政面をはじめいろいろな問題はあろうが、木造の見事な天守を再現してほしいものだ。
(平成23年3月・平成28年9月訪問 #128)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・名古屋城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、名古屋城パンフレット、歴史研究第402号、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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