歴史の勉強

三河国  長篠城

    

天正3年(1575年)5月に長篠城を巡る攻防戦が、織田・徳川連合軍と武田軍との間で戦われた。いわゆる長篠の戦いである。その当時、信長はすでに浅井・朝倉を滅ぼし、室町十五代将軍義昭を追放し、天下人の地位を着々と固めていた。
家康も信長との強固な同盟により三河・遠江両国で武田氏と対立していた。一方武田氏は元亀4年(1573年)に信玄が死去し、跡を勝頼が継いだ。信玄の死は秘匿されたが、信長・家康はその死を知り、家康は三河・遠江で攻勢に出た。
その情勢の中、武田に属していた奥三河の国衆奥平貞昌は、徳川陣営に鞍替えした。もともと奥平氏は徳川陣営であったが、信玄の侵攻の前に膝を屈し、元亀2年(1571年)に武田氏に属したが、再び徳川陣営に戻ったのだった。

毀誉褒貶のある勝頼だが、愚かな人物でなかったのは確かだろう。だが何かと信玄に比較されるうえに、周囲が皆信玄時代の人物では焦る気持ちがあったのだろうか、勝頼は三河・遠江に侵攻を開始した。その最前線というより、絶対に落とさなけれはならないのは長篠城であった。
ここに長篠の戦いが惹起されたのだが、この戦は大きく2つに分けられる。前段は長篠城を巡る戦いである。長篠城の守備兵は約500人といわれ、そこを1万5千といわれる武田軍に囲まれた。
城方の強みは川に囲まれた地形と200丁といわれた鉄砲、大鉄砲であった。これらによって城は武田の猛攻の前にも簡単には落城しなかったが、食料が乏しくなってきた。そこで鳥居強右衛門勝商を岡崎に向かわせ、家康に救援を要請することにした。

鳥居は脱出に成功し岡崎に赴いた。岡崎では織田の援軍がすでに到着し、出撃準備が完了していた。鳥居は長篠城にこのことを伝えるべく取って返すが、武田の警戒網に引っかかり捕えられてしまう。
鳥居は密使であること隠さず、それに対し武田方は救援は来ないと言えば助命すると持ちかけた。鳥居はその取引に応じるふりをし、柱に縛り付けられて城兵の見守る中に引きだされた。そこで鳥居は救援がすぐに来ると叫び、それを聞いた城兵は奮い立った。
鳥居は武田方に槍ですぐに殺されたが、城兵の士気は一気に上がり、その翌日には織田の援軍3万と徳川軍8千が長篠城の西方設楽が原に着陣した。長篠城は籠城に耐えたのだった。そして戦いは次の段階に入った。

設楽が原は丘陵地であり、そこを流れる連吾川の西側に織田・徳川連合軍は陣を敷いた。陣の全面には有名な馬防柵を置いた。そして大量の鉄砲で武田軍を迎えた。一方の武田軍は、騎馬隊を次々に突入させる。激戦となった。 そして結果は武田軍の大惨敗、信長・家康連合軍の戦術的勝利であった。武田軍は多くの重臣や有能な武将たちを失い、滅亡への道を歩み始めた。現在激戦地跡には、馬防柵の一部が復元されている。


本丸空堀

物見櫓跡

野牛郭跡

設楽原馬防柵

長篠の戦いは中世と近世の戦いであり、それに勝利した信長・家康が飛躍する端緒になった戦いの一つである。その重要な戦いの地である長篠城は寒狭川(豊川本流)と宇連川の合流点にある。両川はV字に合流し、その断崖の上に城はあった。
永正5年(1508年)に菅沼元成が築いたとされる。菅沼氏が相伝したが、この系統の菅沼氏は、長篠菅沼氏といわれた。菅沼氏は駿河の今川氏に服属していたが、今川義元の戦死後は松平氏に服属した。しかし武田信玄の西上が開始されると、菅沼氏の宗家田峯菅沼氏の説得もあって武田氏に与した。
だが信玄はこの西上作戦の途中、この長篠の地で病死してしまう。家康は長篠城を攻め、天正元年(1573年)に菅沼氏が降伏退去し、家康は城を拡張し、対武田最前線のこの城に奥平氏を入れた。

城の遺構は本丸周辺と野牛廓が主である。本丸には土塁と空堀が残り、本丸の南側はJR飯田線の線路が横切り、その名も古城址踏切という無人踏切を渡ると野牛廓跡である。このすぐ南側が合流点に落ち込む断崖である。
野牛廓には井戸や物見櫓跡の遺構が残るほか、本丸域に長篠城址史跡保存館が建つ。長篠の戦の翌年、天正4年に奥平貞昌は新城城に移り、長篠城は廃城となった。 (平成26年12月訪問 #133)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、長篠城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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