歴史の勉強

伊勢国  長島城

 

革命児織田信長は、宗教に対しても非常にドライな姿勢で臨んだといえる。敵対する宗派や寺院、僧侶などには厳しかった。比叡山焼討ちや一向一揆への度重なる殺戮などは周知のとおりである。
一向一揆とは浄土真宗本願寺教団が組織した一揆、つまりは既成勢力に対する武力を伴う抵抗運動で、長享2年(1488年)に加賀守護であった富樫氏を滅ぼしたことで世に知られるようになった。
その中心勢力は大坂石山の本願寺であったが、各地にも多くの拠点を築き、戦国大名や有力豪族たちを苦しめた。徳川家康が三河一向一揆に手を焼いたのも知られるところである。
その拠点のひとつに伊勢長島があった。揖斐、長良、木曽の木曽三川の河口が接するこの地帯は、いくつかの島状の陸地に輪中を築いて生活していた。そしてそこには多くの寺院や道場があり、とくに本願寺勢力が強かった。

本願寺では勢力を統制するために、文亀元年(1501年)に本願寺蓮如の六男連淳を派遣して、願証寺を創建した。連淳は砦を築くなどして防衛を固め、武装を強化し、木曽三川にも守られて強大な独立勢力となって行った。
当初は信長も長島には不介入であったが、周囲はことごとく信長の勢力であった。やがて石山本願寺が信長と対立して蜂起し、その結果信長勢力の間にポツリと浮かぶような長島でも、一斉に反信長の蜂起が始まった。
これが長島一向一揆であり、信長に追われた勢力をも加わって、元亀元年(1570年)9月から天正2年(1574年)9月までの約4年間に及ぶ長い戦いが繰り広げられた。最後は兵糧攻めと火攻めで籠城する2万人以上を焼き殺して、一揆を制圧した。
その拠点となった願証寺は廃されたが、その後織田信雄によって清州に再建を許され、のちに桑名にも復興された。桑名の願証寺の別院が長島にも創建された。河川の改修など移転はしたが、これが現在の長島願証寺であり、そこには長島一向一揆殉教之碑が建っている。

      

長島城址(長島中部小)

大手門

この現在の願証寺と長島駅の間にある長島中部小学校が長島城の跡である。一揆の際にはこの付近を中心に、一帯が要塞化されたのであろう。長島城は寛元3年(1245年)に、藤原道家が館を築いたのがそもそもの起こりとされる。
鎌倉時代の話であり、なぜ公家がここに館を築いたかなどはわかっていないし、その後どうなったかもわからない。次に歴史に出てくるのは文明14年(1482年)で、このあたりの豪族伊藤重晴がここに城を再建したというより、新たに砦のようなものを構えたのだろう。
その城を元亀元年に連淳が乗っ取り、以後一向一揆の拠点とした。信長勝利にのちには滝川一益、織田信雄と城主が変わり、天正14年(1586年)の地震で崩壊し、廃城となった。江戸時代になると菅沼氏が2万石で封じられ、久松松平氏を経て元禄15年(1702年)に増山氏が2万石で入封して、明治まで続いた。
城跡は現在長島中部小学校と長島中学校の敷地となり、遺構といえるのは東側の堀と大手橋に残る石垣、そして近くの連生寺に移築された大手門がだけである。
(平成23年3月訪問 #85)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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