歴史の勉強

近江国  長浜城

    

模擬天守

太閤井戸

湖北の戦国大名浅井氏の居城は、戦国五代山城の一つの数えられる小谷城であった。浅井氏は長政の代に、長政が織田信長の妹お市と結婚し、信長と縁戚になった。
信長が早期に上洛できたのも、この政略結婚によるところが大きいが、その後長政は信長を裏切って叛旗を翻す。信長は天正元年(1573年)に小谷城を攻略して浅井氏を滅亡させた。このとき妹婿長政は切腹し、お市は援けだされて、のちに柴田勝家に再嫁する。
滅亡した浅井氏の所領の大部分は、信長のもとで頭角著しい羽柴秀吉に与えられた。秀吉の所領は北近江三郡12万石であったが、山城の小谷城は領国支配には不便であったことから、琵琶湖畔の今浜に築城を開始した。
琵琶湖の水運を重視し、それを領国経営の根幹と考えたことによるといわれ、天正2年から工事が始められ、近郊の農民や土豪、商人、僧侶まで動員され、天正4年(1576年)はじめには完成したといわれる。
小谷から城下町ごと移転し、このときに今浜の地名を長浜に改めている。長浜の長の字は織田信長の長を拝領したともいわれるが真偽のほどは定かではない。

秀吉が築いた長浜城は資料が残っておらず、ほとんど不明であるが、元禄9年(1696年)の長浜城絵図からの想像では、琵琶湖の水を引き入れた三重の堀で囲まれ、城の主要部は琵琶湖に突き出した砂州の上に作られていたらしい。
さらに天守台も描かれているが、天守が築かれたかどうかは不明である。湖岸に建つ城から扇状に城下町が広がっていたと考えられる。
築城に際しての材木は琵琶湖の竹生島などから舟で運ばれ、石材は領内から調達され、石仏や五輪塔、墓石などが利用されたとされる。

本能寺の変で信長が明智光秀によって斃され、その後の山崎合戦で秀吉が光秀を討ち、天正10年(1582年)に清洲会議が開かれて信長亡き後の体制が織田家重臣によって話し合われた。
その席で長浜城を含む秀吉領は柴田勝家に譲られ、長浜には勝家の甥の勝豊が入城した。しかし、勝家と秀吉の対立はすぐに先鋭化し、同年12月には秀吉は勝豊を攻めている。翌天正11年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉軍の軍事拠点となっている。
柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れて滅亡すると長浜は秀吉方の山内一豊に与えられる。一豊の所領は2万石で天正13年(1585年)~同18年(1590年)まで領有し、その後遠江掛川に転封された。
長浜一帯は石田三成の所領となたったが、長浜城は無住となり城内は荒廃した。関ヶ原役後の慶長11年(1606年)に徳川家康の異母弟内藤信成が長浜4万石に封ぜられて、長浜城の大修築を行う。
慶長17年(1612年)には信成の子の信正が城主となったが、元和元年(1615年)に摂津高槻に移封となり長浜城は廃城となった。長浜は彦根藩領となり、長浜城の石垣、櫓材などは彦根城に利用された。

現在城址は豊公園と呼ばれる園地となっていて、昭和58年(1983年)に秀吉時代の天守を想像した模擬天守が建てられた。建造場所は当時とはまったく異なっていて、天守内部は市立長浜歴史博物館となっている。
かつての城址の一部は琵琶湖に水没しており、渇水時には石列が姿を見せるといわれ、普段は湖中にある太閤井戸もそのときは全容が現れる。
(平成19年9月訪問 #6)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、長浜城パンフレット、関連ホームページ

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