歴史の勉強

下野国  茂木城

    

千人溜

鏡が池

本丸虎口

栃木県南東部にある芳賀郡茂木町に、下野宇都宮氏の支族である茂木氏の城があった。現在の茂木の中心市街地の北側にある桔梗山がその城址で、城山公園として整備されている。
主要域のそばまで車で行け、駐車場も完備されている。主郭部は城域の南側にあり、一段高くなっている。一方、東側には出丸があり、現在でも深い空堀の跡がよく残る。出丸には展望台が建てられている。
出丸の北側が大手で、その北には馬場が広がっていた。その西側、つまり本丸の北側に千人溜という広場があり、大手門に対していた。大手を攻める敵に備えての兵の待機場所である。
さらに西側には溜池が点在していた。溜池の一つが鏡が池である。流行病に罹り顔中があばたとなった城主の姫が、自身の顔を池に写してその醜さをはかなみ、池に身を投げたという伝説がある。
鏡が池が本丸域の最西端で、その外が土塁を挟んで二の丸となり、兵糧蔵があった。また二の丸の北側には三の丸が広がっていた。
本丸は土塁が周囲を囲み、虎口へ続く急な階段を上る。土塁によって本丸の守りは堅固だが、本丸域自体は狭く、最期の砦の感覚である。

茂木城の歴史は、治承4年(1180年)に宇都宮宗綱の二男八田知家が、源頼朝蜂起の際の功を賞されて、下野茂木保の地頭に任じられたことに始まる。
建久3年(1192年)に知家は三男の知基に茂木保の地頭職を譲り、知基は茂木に築城を開始した。茂木氏は宇都宮氏に臣従したものの、常陸佐竹氏に攻められると、あっさりと佐竹氏に鞍替えしてしまう。
地理的にも宇都宮氏より佐竹氏に脅威を感じざるを得ず、また宇都宮氏より佐竹氏の方が軍事力が上回っていたからだろう。
天正年間には後北条氏の勢力が下野にも浸透しだし、天正13年(1585年)の天谷場合戦で後北条氏に敗れ、一時的に後北条氏に占領された。
その後、佐竹氏の支援により城を奪還するが、文禄3年(1594年)に茂木氏は小川城に移り、茂木城は佐竹氏配下の須田氏に預けられた。
以後佐竹氏の支配下となるが、関ヶ原役の結果佐竹氏は秋田に移り、茂木は代官支配を経て慶長15年(1610年)に細川興元に与えられた。
(平成27年8月訪問 #130)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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