歴史の勉強

上野国  箕輪城

関東を代表するといってもいい壮大な平山城が箕輪城である。西上野の国人領主長野氏の居城で、永正9年(1512年)ころに長野業尚により築かれた。
長野氏は在原業平の後裔といわれ、関東管領山内上杉氏の重臣であった。業尚の跡を憲業-業政-業盛と四代に渡り箕輪城を居城とした。
長野氏の全盛時代は業政のころで、西上野の諸豪族と姻戚関係を結び勢力を広げ、版図を広げて武田信玄の侵略をたびたび撃退した。
業政は山内上杉氏に最後まで尽くし、永禄4年(1561年)に没した。跡を継いだのは業盛はまだ14歳であった。信玄は業政死去を知ると西上野に攻勢を開始する。

信玄は近隣の諸城に調略をしかけて和田城の和田業繁や大戸城の浦野重成を従え、さらに国峰城、安中城、松井田城、倉賀野城などを落とし、この結果箕輪城は孤立してしまった。
信玄は2万ともいわれる軍勢を率いて永禄9年(1566年)に箕輪城を攻め、城主業盛は自刃し長野氏は滅んだ。こうして箕輪城は武田氏の城となるが、その武田氏も天正10年(1582年)に信長により滅ぼされる。
その後は後北条氏が一時的に占拠したが、織田氏が侵攻し関東管領滝川一益により駆逐された。しかし本能寺の変で信長が横死すると一益は関東から逃げ、再び後北条氏の城となり北条氏邦が城代となった。
天正18年(1590年)に秀吉によって後北条氏が討伐され、関東には徳川家康が移封され、箕輪には井伊直政が12万石で封じられた。
直政の石高は家康家中最高で、直政は城を近世城郭に改修したが、慶長3年(1598年)に高崎に移されて箕輪城は廃城となった。


左:二の丸 中:本丸 右:本丸と御前曲輪の間の空堀、この先で一気に深くなる

箕輪城の所在地は高崎市箕郷町(旧群馬郡箕郷町)にあり、高崎駅からのバスでも、車で行っても搦手口の方がわかりやすい。県道28号沿いに駐車場があって、そこから搦手口を経て坂道を上がると二の丸である。
この二の丸広場にも車数台が停められるスペースがある。二の丸広場から左側に進むと馬出があり、その先が本丸になる。本丸の周囲には土塁が残り、浅い空堀を隔てて御前曲輪がある。


左:新曲輪、手前の堀は水堀だったらしい。この付近が堅城箕輪城の弱点であった
右:本下の堀切、左側の上に本丸がある


御前曲輪の先は箕輪城の一大特徴である空堀の底に下りることができる。下りた先の北側には新曲輪、稲荷曲輪が広がり、武田氏の特徴である丸馬出が不完全ながら残る。
新曲輪から戻り本丸下の空堀を行くと、いかに巨大な堀かということが実感できる。よく整備されているから、林の中を散歩するような気分だ。途中には堀に架けられた橋の脚台も残っている。やがて三の丸に達する。


左:三の丸門跡の石垣、ここには櫓門があったという 中:鍛冶曲輪の石垣 右:白川口埋門

三の丸自体は木が数本生えた原っぱであるが、三の丸下の門跡には石垣が残る。さらに進むと鍛冶曲輪に達し、ここにも石垣が残っている。
これらの石垣は井伊氏時代のものといわれ、城主の権威を示すためではないかとも考えられている。鍛冶曲輪から少し行くと虎韜門に出る。長野氏の時代にはここが搦手であったといわれている。
ここにも駐車場があり、道路を挟んで白川口埋門が残る。埋門とはトンネル式の門のことで、上野では唯一残る埋門遺構だそうだ。写真では草が茂ってよくわからないが石垣が残る。


左:大堀切、土橋から撮ったものだが雰囲気がでてない
右:郭馬出、手前にあるのは二の丸方面へ大堀切を渡る唯一の橋


再び三の丸に戻り、二の丸方面に向うとすぐに大堀切を渡る土橋がある。土橋の両側に大堀切があるが、どう写真を撮っても雰囲気がでない。ここは見て実感して感動するに限る。
二の丸手前を左に曲ると郭馬出があって、横矢が掛るようになっている。この大堀切から馬出までが箕輪城の圧巻で、大堀切で城内を二分するようになっている。その先は木俣といわれる二俣で、左に取れば榛名口に、右に取れば大手口に行ける。
なんといってもその壮大さには圧倒されます。よく整備されて歩きやすく、妙な建造物もほとんどなく、戦国の世の感覚に浸れる必見の城です。
(平成20年10月、平成21年11月訪問 #58)

参考文献:戦国の堅城U(学研)、箕輪城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -