歴史の勉強

近江国  水口城

    

水堀と出丸

復元された二重櫓

現在の地に建つ水口城は、もともと城として造られたものではない。この地の城はさらに東側の岡山という山に築かれた山城であった。現在でも岡山古城として案内され、小さいながらも駐車場もあって見学できるが、今回は時間の関係と暑さでパス。
その水口岡山城は天正13年(1585年)に秀吉の側近武将の一人であった中村一氏が、秀吉の命によって築いたもので、甲賀の押さえを目的としていた。
天正18年(1590年)に徳川家康の関東移封に伴う関連転封で、中村一氏は家康への押えとして家康旧領の駿府に14万石で移され、水口には五奉行の一人で官僚武将の増田長盛が入り、さらに長盛が転封となると同じく五奉行の一人長束正家が入封した。関ヶ原役で正家は西軍に属したために役後に領地は没収され岡山の城は破却された。

その後の水口は幕府直轄領となったが、寛永11年(1634年)の三代将軍家光の上洛に合わせて、水口に宿舎を築く必要が出てきた。
東海道の宿場であり、旅程の関係からこの地に宿舎を築かざるを得なかったのだが、宿舎だから天守はなく方形居館の形式で、縄張りは二条城そっくりであった。
水口御茶屋御殿と呼ばれ、築城は公儀普請で行われ、作事奉行は作庭で有名な小堀政一(遠州)が担った。寛永11年の上洛で家光は帰路に水口に宿泊している。
天和2年(1682年)になって加藤明友が入封して水口藩を立て、一時的に鳥居氏が入ったが加藤氏が再封して明治に至った。
この加藤氏は秀吉子飼いの加藤嘉明の末裔で、嘉明の子の明成が家臣と争って騒動を起こし会津40万石を改易され、その庶子の明友に2万石が与えられ(正確には石見吉永1万石が与えられ、精勤により加増転封され近江水口2万石)たものである。

後代の水口城は宿舎として平和な時代に作られたものだから防御を考慮する必要はほとんどなく、平地に築かれている。東西75間、南北79間とされる敷地を堀で囲み、その内側には石垣で囲ったという。
東側に出枡形を築き大手門が配され、その一の門は高麗門、二の門は櫓門であった。このほかに北側に鉄門と呼ばれる北大手門があり、多門櫓で囲んで枡形を形成した。本丸内には御殿が建ち、本丸四隅には櫓があげられた。
現在水口城資料館として二重櫓が復元されているが、この位置が大手枡形の位置で、櫓自体は位置も形状も異なる模擬建築である。
明治の廃城により城は売却されたが、藩士の一人が本丸の一部を購入して敷地内に家を建てて住み続けたという。その本丸の大部分は現在水口高校のグラウンドになっている。
(平成23年8月訪問 #77)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、、よみがえる日本の城(学研)、関連ホームページ

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